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竪穴住居と縄文ムラの暮らし

竪穴住居と縄文ムラの暮らし

縄文時代の人々は、地面を掘って柱を立てた「竪穴住居」に住み、ムラ(集落)を作って定住生活を始めました。彼らの暮らしぶりを詳しく見ていきましょう。

基本知識

竪穴住居(たてあなじゅうきょ)は、地面を50cmほど掘り下げ、中央に炉を設け、柱を立てて茅や樹皮で屋根をふいた住居です。直径4〜6m、3〜5人家族が住める広さでした。
竪穴住居が数軒集まってムラ(集落)を形成し、中央に広場を置く環状集落も多く見られます。広場では祭祀や集会が行われたと考えられています。
食料は近くの山や海・川から獲得し、人々は 狩猟(弓矢で鹿・イノシシ)・採集(ドングリ・栗・山菜)・漁労(魚・貝)を組み合わせて生活していました。これを「縄文型生業」と呼びます。
食料残滓を捨てた場所が貝塚(かいづか)として残っており、当時の食生活を知る貴重な手がかりとなっています。

📘 縄文ムラの構成要素
竪穴住居 直径4〜6m、3〜5人家族用、中央に炉
広場 ムラの中央、祭祀・集会の場
貝塚 食料残滓のごみ捨て場、遺物の宝庫
墓地 ムラの周辺、屈葬が多い
高床倉庫 一部の集落で食料保存用に建造
大森貝塚(東京) モースが1877年に発掘、日本考古学発祥の地

深掘り (背景・影響)

縄文時代の人々は、季節ごとに異なる食料を巧みに利用していました。春は山菜、夏は魚・貝、秋はクリ・ドングリ、冬はシカ・イノシシ猟というように、年間を通して安定的に食料を確保していたのです。
大森貝塚(東京都品川区・大田区)は、1877年にアメリカの動物学者モース(E.S.Morse)が発掘した日本初の考古学的発掘調査で、ここから日本考古学が始まりました。彼はこの遺跡を発見した際、列車から貝の堆積を偶然見つけたと言われます。
縄文時代のムラは、現代的な意味での「村」とは違い、数軒〜十数軒程度の小規模なものが多かったとされます。ただし、青森県の三内丸山遺跡のように、500人規模が長期間定住した大型集落も存在しました。これは縄文時代観を大きく塗り替えた発見です。

💡 ポイント
  • 竪穴住居 = 地面を掘り下げ、中央に炉、茅葺き屋根
  • 狩猟・採集・漁労を組み合わせた「縄文型生業」
  • 貝塚 = 食料残滓のごみ捨て場、当時の食生活が分かる
  • 大森貝塚(東京)= モースが発掘、日本考古学発祥
  • 環状集落 = 中央広場を囲んで住居が並ぶ形式
  • 屈葬 = 死者の足を曲げて埋葬する縄文の風習
  • 定住生活と移動的要素(季節移住)を併用

注意点 (混同しやすい)

① 大森貝塚を発掘したのは「モース(アメリカ人)」。日本人ではない。1877年(明治10年)。② 「竪穴住居」と「高床倉庫」は別物。住居=地面を掘る、倉庫=床を高くする。③ 縄文の屈葬と弥生以降の伸展葬の違いに注意。④ 貝塚は単なる「ごみ捨て場」ではなく、祖先祭祀の場でもあった可能性が指摘されている。⑤ 縄文人は定住しつつも、完全な定住ではなく季節移動もあった。

練習

  1. 竪穴住居の構造を簡潔に説明せよ。
  2. 大森貝塚の発掘者と発掘年を答えよ。
  3. 縄文時代の主な食料獲得方法を3つ挙げよ。

このレッスンのQ&A

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