白村江の戦いと壬申の乱
大化の改新後、日本は朝鮮半島で唐・新羅連合と戦って大敗し、その後国内では皇位継承をめぐる壬申の乱が起こりました。激動の7世紀後半を見ていきましょう。
基本知識
7世紀半ば、朝鮮半島では新羅が唐と同盟を結び、660年に百済を滅ぼし、668年に高句麗を滅ぼし、半島の統一を進めました。これに対し、日本(倭)は同盟国の百済の復興を支援するため、663年、朝鮮半島に大軍を派遣しました。
これが白村江の戦い(はくすきのえのたたかい・はくそんこう)です。日本軍は唐・新羅連合軍と白村江(現在の朝鮮半島西岸)で戦い、大敗しました。日本水軍は焼き払われ、多くの兵士が戦死しました。
敗戦後、唐の侵攻に備えて、中大兄皇子は防衛体制を整えました:
・水城(みずき): 大宰府の防御施設(福岡県)
・大野城: 大宰府を守る山城
・烽火(のろし)と防人(さきもり): 警備体制
667年、都を近江大津宮に遷し、668年に中大兄皇子が即位して天智天皇となりました。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱(じんしんのらん)が起こります。これは天智天皇の弟大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天智天皇の子大友皇子(おおとものおうじ)の皇位継承争いでした。大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位しました。
645年 乙巳の変、大化の改新の開始
660年 唐・新羅が百済を滅ぼす
663年 白村江の戦い、日本大敗
667年 近江大津宮に遷都
668年 中大兄皇子が即位 → 天智天皇
670年 庚午年籍(日本初の全国戸籍)
672年 壬申の乱、大海人皇子が勝利
673年 大海人皇子が即位 → 天武天皇、飛鳥浄御原宮へ遷都
深掘り (背景・影響)
白村江の戦いの敗北は、日本にとって衝撃的な出来事でした。それまで朝鮮半島南部に影響力を持っていた日本は、半島から完全に手を引かざるを得なくなりました。これは日本が「日本列島」の中で国を作っていく方向を決定づけた出来事ともいえます。
同時に、唐の侵攻に備えるため、防衛体制を急速に整えました。大宰府の前面に築かれた水城は、長さ約1.2km、高さ約9mの土塁で、現在も一部が残っています。九州各地に山城(朝鮮式山城)が築かれ、防人が配備されました。
壬申の乱は、672年に起こった日本古代最大の内乱です。大海人皇子(天智天皇の弟)は天智天皇の死後、出家して吉野に隠棲していましたが、甥の大友皇子(天智天皇の長男)が即位することを警戒し、挙兵しました。東国(美濃・尾張)の豪族たちの支援を得て、約1か月の戦いで近江朝廷を破りました。
天武天皇は強い権力を持ち、本格的な律令国家の建設を進めました。彼は「大王」ではなく「天皇」の称号を初めて使ったとされ、また「日本」という国号もこの時期から使われ始めたとされます。彼の死後、皇后だった持統天皇が即位し、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を制定(689年)し、694年に藤原京に遷都しました。藤原京は日本初の本格的な条坊制都市で、後の平城京・平安京の原型となりました。
- 663年: 白村江の戦い、日本が唐・新羅連合に大敗
- 百済の復興を支援するも失敗 → 朝鮮半島から撤退
- 防衛: 水城・大野城・防人・烽火
- 668年: 中大兄皇子 → 天智天皇即位
- 672年: 壬申の乱(大海人皇子 vs 大友皇子)
- 大海人皇子勝利 → 天武天皇即位
- 「天皇」「日本」の称号がこの時期から使用
- 694年: 持統天皇、藤原京に遷都
注意点 (混同しやすい)
① 白村江の戦い(663年)の読みは「はくすきのえ」または「はくそんこう」。教科書によって違う。② 朝鮮三国の滅亡: 百済(660年)→ 高句麗(668年)→ 新羅統一(676年)。③ 壬申の乱は672年。中大兄皇子=天智天皇、大海人皇子=天武天皇の対応を覚える。④ 「水城」と「水戸」を混同しない。水城は大宰府の防御施設。⑤ 「飛鳥浄御原令」は689年、「大宝律令」は701年。違いに注意。⑥ 藤原京は持統天皇が遷都(694年)、平城京は元明天皇が遷都(710年)。混同しない。
練習
- 663年に起こった、日本が朝鮮半島で大敗した戦いの名称を答えよ。
- 672年の壬申の乱で勝利し、即位した人物の即位後の名前を答えよ。
- 白村江の戦いの後、日本が築いた防衛施設を2つ挙げよ。