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聖武天皇と大仏建立

聖武天皇と大仏建立

奈良時代の中心人物が聖武天皇です。彼は仏教の力によって国を救おうとし、東大寺の大仏建立という壮大な国家事業を行いました。

基本知識

聖武天皇(しょうむてんのう)は、724年〜749年に在位した第45代天皇です。父は文武天皇、母は藤原宮子(不比等の娘)。妻の光明皇后は藤原不比等の娘で、これにより藤原氏との結びつきが強まりました。
聖武天皇の治世には多くの災難が続きました:
・737年: 天然痘の大流行(藤原四兄弟も死亡)
・740年: 藤原広嗣の乱
・地震・飢饉・疫病の頻発
これらに対応するため、聖武天皇は仏教の力で国を守る「鎮護国家(ちんごこっか)」の思想に頼り、以下の政策を実施しました。
741年: 国分寺・国分尼寺建立の詔 - 各国に国分寺(僧寺)と国分尼寺を建立
743年: 盧舎那大仏(大仏)造立の詔 - 東大寺の大仏を造る
752年: 大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう) - 大仏の完成式
大仏は高さ約15m、東大寺に安置され、現在も日本の象徴的存在となっています。

📘 聖武天皇関連年表
724年 聖武天皇即位
737年 天然痘大流行、藤原四兄弟死去
740年 藤原広嗣の乱、恭仁京に遷都
741年 国分寺・国分尼寺建立の詔
743年 大仏造立の詔、墾田永年私財法
745年 平城京に戻る
749年 聖武天皇譲位、孝謙天皇即位
752年 東大寺大仏開眼供養
756年 聖武上皇死去、遺品が正倉院に納められる

深掘り (背景・影響)

聖武天皇が大仏を造ろうとした背景には、当時の国家の危機がありました。737年の天然痘大流行では、人口の約3割が死亡したと推定されています。藤原四兄弟が全員死亡し、政権は混乱しました。さらに740年には藤原広嗣の乱(九州での反乱)が起き、聖武天皇は動揺して恭仁京・難波京・紫香楽宮と都を転々としました。
こうした状況の中で、聖武天皇は仏教の力で国を救う「鎮護国家」思想に頼りました。これは「金光明最勝王経」「法華経」を信奉し、国家の安泰を仏に祈るという考えです。各国に国分寺・国分尼寺を建てたのも、全国レベルで仏教の力を国家防衛に動員する意図がありました。
大仏の正式名称は盧舎那仏(るしゃなぶつ・盧遮那仏)で、宇宙の真理を体現する仏とされます。高さ約15m、重さ約250トン。建立には多くの労働力と銅・金などの資源が必要でした。技術指導には朝鮮・中国の渡来人が活躍し、また民衆の協力を得るため、聖武天皇は行基(ぎょうき)という民間の高僧を起用しました。行基は民衆に親しまれた僧で、彼の協力によって大仏建立への民衆支持が広がりました。
752年の大仏開眼供養には、インド人の僧菩提僊那(ぼだいせんな)が招かれ、目に筆で瞳を入れる「開眼」を行いました。この国際色豊かな儀式は、奈良時代の日本が世界とつながっていたことを示しています。

💡 ポイント
  • 聖武天皇 = 724年即位、災難への対応に苦慮
  • 737年: 天然痘大流行、人口3割死亡
  • 「鎮護国家」思想で仏教に頼る
  • 741年: 国分寺・国分尼寺建立の詔
  • 743年: 大仏造立の詔(盧舎那仏)
  • 行基 = 民衆に親しまれた僧、大仏建立に協力
  • 752年: 大仏開眼供養(菩提僊那が開眼)
  • 大仏 = 高さ約15m、東大寺に安置

注意点 (混同しやすい)

① 国分寺建立の詔(741年)と大仏造立の詔(743年)の年を覚える。② 大仏の正式名は盧舎那仏。「東大寺の大仏」=「奈良の大仏」=「盧舎那仏」。鎌倉の大仏(阿弥陀仏)とは別。③ 開眼供養は752年。聖武天皇は既に譲位しているが、上皇として出席。④ 行基は当初、政府から布教を禁じられていたが、後に大僧正となり大仏建立を指導した。⑤ 光明皇后は聖武天皇の妻で、藤原不比等の娘。皇族以外で初めて立后された皇后。⑥ 聖武天皇の遺品は正倉院に納められ、現在も保存されている。

練習

  1. 聖武天皇が741年と743年に出した二つの詔の内容を答えよ。
  2. 東大寺大仏の正式名称を答えよ。
  3. 大仏建立に協力した、民衆に親しまれた僧の名前を答えよ。

このレッスンのQ&A

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