南北朝の動乱
後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を立て、足利尊氏は京都で北朝を擁立。二つの朝廷が並立する異常事態が、約60年間も続きました。
基本知識
1336年、足利尊氏は京都に持明院統の光明天皇を立て、新たな政治方針「建武式目」を発表。これが室町幕府の出発点となります。一方、後醍醐天皇は神器を持って吉野(奈良県)に逃れ、自らを正統な天皇と主張しました。これにより、
京都=北朝(持明院統、足利尊氏が擁立)
吉野=南朝(大覚寺統、後醍醐天皇)
という南北朝の動乱が始まりました。
1338年、足利尊氏は北朝から征夷大将軍に任命され、室町幕府が成立。1339年に後醍醐天皇は吉野で死去しますが、南朝は後村上天皇らに引き継がれ、楠木正行(正成の子)、新田義貞、北畠顕家ら南朝側の武将が各地で抵抗を続けました。
動乱は地方の武士団も巻き込み、各地で南朝方と北朝方が入り乱れて戦いました。1392年、3代将軍足利義満のあっせんにより、南朝が北朝に合一(南北朝合一)して、ようやく動乱は終結しました。
1336年 足利尊氏、建武式目を発表、光明天皇擁立
1336年 後醍醐天皇、吉野に脱出=南北朝の開始
1338年 足利尊氏が征夷大将軍に=室町幕府成立
1339年 後醍醐天皇、吉野で死去
1392年 南北朝合一(足利義満による)
深掘り (背景・影響)
なぜ動乱が60年も続いたのか。最大の理由は、室町幕府内の権力闘争です。1350-1352年の観応の擾乱(じょうらん)では、尊氏とその弟足利直義、執事の高師直(こうのもろなお)が三つ巴の争いを繰り広げ、南朝に降参する者まで出る混乱ぶりでした。
地方では、守護の権限が大幅に拡大しました。鎌倉時代の守護は軍事・警察のみでしたが、南北朝期には半済令(年貢の半分を兵糧として徴収できる権利)、守護請(荘園の年貢徴収を請け負う)などにより、領国支配を強める守護大名へと成長します。これが後の戦国大名の原型となりました。
軍記物『太平記』は、この時代の戦乱を描いた長大な物語で、楠木正成、新田義貞、足利尊氏ら多くの人物の活躍と悲劇を伝えています。
- 南朝=吉野・大覚寺統(後醍醐天皇系)
- 北朝=京都・持明院統(光明天皇から始まる)
- 1338年=足利尊氏が征夷大将軍、室町幕府成立
- 1392年=南北朝合一(足利義満があっせん)
- 観応の擾乱(1350-1352)=尊氏 vs 直義の内紛
- 半済令=年貢の半分を守護が兵糧として徴収できる
- 守護大名=南北朝期に成長した、領国を支配する守護
- 軍記物『太平記』=南北朝時代を描いた長編
注意点 (混同しやすい)
① 南朝=大覚寺統=吉野、北朝=持明院統=京都のセットを覚える。
② 後醍醐天皇は南朝の初代天皇だが、政治家としては失敗した。理想家・革新者として評価される面もある。
③ 1338年(室町幕府成立=尊氏が征夷大将軍)と1336年(建武式目発表)を区別。教科書により室町幕府の成立年は異なる。
④ 足利尊氏(初代)、足利義詮(よしあきら)(2代)、足利義満(3代)の順序。南北朝合一は3代義満の業績。
練習
- 南朝が置かれた場所を答えよ。
- 南北朝の合一を実現した室町幕府の将軍の名前を答えよ。
- 南北朝期に守護の権限を拡大させた、年貢の半分を徴収する権利を認めた法令の名前を答えよ。