朝鮮出兵と秀吉の晩年
天下統一を成し遂げた秀吉は、海外侵略に乗り出します。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は、東アジア国際秩序を揺るがしましたが、日本に多大な犠牲をもたらしました。
基本知識
秀吉の海外政策の流れ:
1587年:バテレン追放令 — 九州平定後、宣教師の国外退去を命じる。ただし南蛮貿易は継続を許可したため徹底されず。
1588年:海賊禁止令 — 倭寇の活動を禁止。
1592年:文禄の役(朝鮮出兵) — 約16万の軍を朝鮮半島に派遣。加藤清正・小西行長らが先鋒。当初は破竹の勢いで首都漢城(現ソウル)を陥落させ、平壌まで進撃。しかし、朝鮮水軍の李舜臣(イスンシン)が亀甲船(きっこうせん)で日本の補給線を断ち、明の援軍が南下、各地で朝鮮義兵の抵抗にあい、戦況は膠着。1593年に休戦。
1593-1596年:講和交渉 — 明との和平交渉が続くが、秀吉の要求(明の皇女を后にする、勘合貿易の復活など)と明の認識のずれから決裂。
1597年:慶長の役(再出兵) — 約14万の軍を再派遣。今度は朝鮮南部の制圧を狙うが、李舜臣の復帰や明軍の抵抗で苦戦。
1598年8月:秀吉死去 — 五大老が密議して撤兵を決定。同年末までに撤退。最後の海戦露梁(ノリャン)海戦で李舜臣は戦死するが、日本軍に大打撃を与える。
結果:朝鮮は大被害(国土荒廃、人口激減)。明は財政負担で衰退し、後に滅亡(1644年)。日本は莫大な戦費と兵力を失い、豊臣政権の弱体化を招きました。
1592年4月 文禄の役開始(約16万)、漢城を陥落
1592年7月 李舜臣率いる朝鮮水軍が日本補給船団を撃破
1593年 文禄の役休戦、講和交渉開始
1597年 慶長の役開始(約14万)
1598年8月 秀吉死去、撤兵決定
1598年11月 露梁海戦、李舜臣戦死、撤退完了
深掘り (背景・影響)
朝鮮出兵の目的は諸説あります。
① 明への征服(秀吉本人の野望):秀吉は明を征服して、皇族を中国・日本・朝鮮の王に据える構想を抱いていたとされる。
② 大名への土地分配:国内に新たに分配する土地がなくなったため、海外に求めた。
③ 大名の力の削減:有力大名を海外で消耗させる狙い。
朝鮮出兵の影響:
① 日本側:加藤清正・小西行長・島津義弘らが活躍したが、莫大な戦費と兵力を失った。豊臣政権の経済基盤を傷つけた。
② 朝鮮側:国土が荒廃し、文化財も略奪された。一方、日本に拉致された陶工(李参平ら)が有田焼・薩摩焼・萩焼などの起源となる。
③ 中国(明)側:援軍の戦費が国家財政を圧迫。これが明の衰退・滅亡の遠因となる。
④ 東アジア国際秩序:明の威信が大きく傷つき、後に清(満州族)が中国を征服する遠因となる。
朝鮮出兵で消耗した豊臣家臣団は、文治派(石田三成ら)と武断派(加藤清正・福島正則ら)に分裂し、これが後の関ヶ原の戦いの伏線となります。
- 1592年=文禄の役、約16万の軍勢
- 1597年=慶長の役、約14万の軍勢
- 李舜臣=朝鮮水軍の将、亀甲船で日本軍を翻弄
- 1598年=秀吉死去、撤兵決定
- 1587年=バテレン追放令、宣教師追放
- 加藤清正・小西行長=朝鮮出兵の先鋒
- 朝鮮陶工拉致=有田焼・薩摩焼・萩焼の起源
- 明の衰退・清の興隆の遠因に
注意点 (混同しやすい)
① 文禄の役(1592-1593)と慶長の役(1597-1598)を区別。朝鮮では壬辰(じんしん)倭乱・丁酉(ていゆう)倭乱と呼ぶ。
② 李舜臣(イスンシン)=朝鮮水軍の名将、亀甲船を使用。1598年露梁海戦で戦死。韓国の英雄。
③ バテレン追放令(1587)と禁教令(1612年家康、1614年家康)を区別。秀吉のバテレン追放令は徹底されず、家康がさらに厳しく禁教を進めた。
④ 朝鮮出兵後、加藤清正・福島正則ら武断派と、石田三成ら文治派が対立。これが関ヶ原の伏線となる。
練習
- 1592年に始まった豊臣秀吉の最初の朝鮮出兵の名前を答えよ。
- 朝鮮水軍を率いて亀甲船で日本軍を苦しめた朝鮮の将軍の名前を答えよ。
- 朝鮮出兵が日本の文化に与えた影響を、陶磁器の例を挙げて簡潔に答えよ。