ウィーン体制
ナポレオン戦争が終わった1815年、ヨーロッパ列強はウィーンに集まり新しい国際秩序を作り上げました。これがウィーン体制です。自由主義とナショナリズムを抑え込もうとしたこの体制は、のちに各地の革命によって崩壊していきます。
ウィーン会議と正統主義
1814年9月から1815年6月にかけて開かれたウィーン会議は、オーストリアの宰相メッテルニヒが主導しました。会議の原則は正統主義(フランス革命以前の正当な王朝と国境に戻す)と勢力均衡(特定国が突出しないよう各国の力を均等にする)でした。フランスにはブルボン朝が復活し、スペイン・ポルトガルにも旧王朝が戻ります。ドイツ地域では神聖ローマ帝国の復活は認められず、代わりにドイツ連邦(35君主国+4自由市)が結成されました。
📘 ウィーン体制の柱
主催者:メッテルニヒ(オーストリア宰相)
2原則:正統主義(旧秩序回復)・勢力均衡(力の均等化)
維持機構:神聖同盟(露・普・墺、キリスト教君主連帯)・四国同盟(英・露・普・墺)
ドイツ:神聖ローマ帝国は復活せず→ドイツ連邦結成
主催者:メッテルニヒ(オーストリア宰相)
2原則:正統主義(旧秩序回復)・勢力均衡(力の均等化)
維持機構:神聖同盟(露・普・墺、キリスト教君主連帯)・四国同盟(英・露・普・墺)
ドイツ:神聖ローマ帝国は復活せず→ドイツ連邦結成
神聖同盟と自由主義への弾圧
ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で神聖同盟(露・普・墺の君主が結ぶキリスト教君主連帯の盟約)が成立しました。これにより各国の自由主義・ナショナリズム運動は「秩序への反乱」として弾圧されます。メッテルニヒはオーストリア国内の言論を統制し、ドイツ各地の学生運動(ブルシェンシャフト)も弾圧しました。1820年代にはスペイン・ギリシャ・南イタリアで革命が起こりましたが、列強の干渉で多くが鎮圧されます。ただしギリシャ独立戦争(1821-1829)は英仏露の支援を受けて成功し、1829年にオスマン帝国からの独立が認められました。
練習
- ウィーン会議を主導したオーストリアの宰相は誰か。
- ウィーン体制の2つの基本原則を答えよ。
- ウィーン体制下でドイツ地域に成立した政治的まとまりの名称は。