中央アジア / 三大イスラーム帝国 5 / 6

三大帝国の衰退とヨーロッパの台頭

三大帝国の衰退とヨーロッパの台頭

17〜19世紀にかけて、オスマン・サファヴィー・ムガルの三大イスラーム帝国はいずれも衰退し、代わって産業革命を経たヨーロッパ列強が中東・南アジアへ進出しました。

オスマン帝国の衰退

  • 1683年:第2次ウィーン包囲が失敗→以後ヨーロッパに領土を失い続ける
  • 「東方問題」:衰退するオスマン帝国の領土をめぐるヨーロッパ列強の争い
  • 19世紀:ギリシャ独立(1830)・エジプト自立(ムハンマド・アリー)など各地で独立運動
  • 「ヨーロッパの病人」と呼ばれ、英仏露が介入
  • 1923年:第一次世界大戦後の敗北とケマル・アタテュルクによるトルコ共和国建国で帝国消滅

サファヴィー朝・ムガル帝国の衰退

  • サファヴィー朝:1722年アフガン人の侵入で首都イスファハーンが陥落、1736年に滅亡
  • ムガル帝国:18世紀にマラーター王国・シク教徒・ヨーロッパ列強(特にイギリス)の圧力で空洞化→1858年インド大反乱(シパーヒーの乱)後にイギリスがムガル最後の皇帝を廃位

ヨーロッパの帝国主義

  • 産業革命(18〜19世紀)で圧倒的な軍事・経済力を得た西欧列強
  • オスマン帝国の領土→英仏露が分割(第一次世界大戦後のサイクス・ピコ協定)
  • インド→1858年以降イギリスの直接統治(インド帝国)
  • 中央アジア→ロシア帝国が19世紀末までに大部分を征服
📘 例題①
オスマン帝国が「ヨーロッパの病人」と呼ばれた背景と、列強が帝国領土に介入した理由を答えなさい。
解答:19世紀のオスマン帝国は財政難・軍事力低下・民族独立運動で領土が縮小し続けた。列強(英・仏・露)は各自の利害から介入:ロシアは南下政策で不凍港と地中海へのアクセスを求め、イギリスはインドへの交通路(スエズ運河)の安全を確保するためオスマンを保護、フランスはシリア・レバノンで影響力を持った。この複雑な利害関係が「東方問題」と呼ばれた。
💡 ポイント
  • 1683年第2次ウィーン包囲の失敗→オスマン帝国の長期衰退が始まる
  • 「東方問題」=衰退するオスマン帝国をめぐる列強の利害対立
  • 1858年シパーヒーの乱後にイギリスがムガル皇帝を廃位→インド帝国
  • 三大帝国の衰退→現在の中東・南アジア・中央アジアの国境線の原型が形成

練習問題

  1. オスマン帝国の衰退が「東方問題」と呼ばれた理由を答えなさい。
  2. ムガル帝国の実質的な終焉をもたらした1857年の事件の名前と結果を答えなさい。
  3. サファヴィー朝が滅亡した年と直接的な原因を答えなさい。

解答・解説

  1. 解答:衰退するオスマン帝国(ヨーロッパの「東方」)の領土分割をめぐって英・仏・露・オーストリアなどが利害対立し、外交・軍事問題を繰り返したことから「東方問題」と呼ばれた。
    解説:クリミア戦争(1853〜56)も東方問題の一局面。
  2. 解答:インド大反乱(シパーヒーの乱、1857〜1858年)。イギリス東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー)が起こした大規模反乱。鎮圧後、イギリス政府が東インド会社を解散してインドを直接統治(インド帝国)し、ムガル最後の皇帝バハードゥル・シャー2世を廃位・流刑にした。
    解説:ムガル帝国の名目的存続が終わった。
  3. 解答:1736年。直接原因は1722年のアフガン人(ギルザイ族)の侵入で首都イスファハーンが陥落したこと。その後ナーディル・シャーが実権を握り、1736年にサファヴィー朝を廃して自らナーディル・シャーとして即位した。
    解説:アフガン侵入がサファヴィー朝の事実上の終わり。
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このレッスンのQ&A

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