院政と武士の台頭
平安時代後期、藤原氏に対抗するため、上皇が政治を行う「院政」が始まりました。同時に地方では武士が力をつけ、保元・平治の乱を経て平氏政権が成立します。
基本知識
院政(いんせい)とは、退位した天皇(上皇・「院」)が、宮廷の政治機構(藤原氏の摂関政治)から離れて、独自に政治を行う体制です。
1086年、白河天皇は皇子の堀河天皇に位を譲って上皇となり、自ら政治を行いました。これが院政の始まりです。
院政が可能になった理由:
・藤原氏との外戚関係を持たない後三条天皇が即位(1068年)
・上皇は院庁(いんのちょう)を設置し、独自の側近を持つ
・院近臣(受領出身の中下級貴族)が院政を支える
院政は白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と約100年続き、その間に武士の台頭が進みました。
地方では、武士(さむらい)が成長していました。武士の起源:
・地方の有力農民が武装
・国司に対抗するため自衛
・京都に上って貴族の警護・寺院の僧兵を担当
・反乱の鎮圧で活躍(平将門の乱・藤原純友の乱)
有力武士団: 源氏(清和源氏)と平氏(桓武平氏)の2大武士団
935年 平将門の乱(関東)開始 → 940年鎮圧
939年 藤原純友の乱(瀬戸内海) → 941年鎮圧
1051年 前九年の役(源頼義・義家が安倍氏を討伐)
1083年 後三年の役(源義家が清原氏の内紛を鎮圧)
1086年 白河上皇が院政開始
1156年 保元の乱(後白河vs崇徳、平清盛・源義朝が活躍)
1159年 平治の乱(平清盛が源義朝を倒す)
1167年 平清盛、太政大臣となる
1185年 壇ノ浦の戦い、平氏滅亡
深掘り (背景・影響)
院政の意義は、藤原氏の摂関政治から実権を取り戻そうとした政治改革だったことです。上皇は天皇の父・祖父として強い権威を持ち、藤原氏に縛られない政治運営を可能にしました。
白河上皇は強力な独裁者で、彼の意のままにならないものは「賀茂河の水、双六の賽、山法師」(鴨川の洪水、サイコロの目、比叡山の僧兵)の3つだけだったと言われます。
武士の登場は、平安時代後期の最重要事件です。武士は地方の有力農民が自衛のために武装したのが始まりで、徐々に組織化して武士団を形成しました。
・平将門の乱(935-940年): 関東で平将門が反乱、「新皇」を称する → 平貞盛・藤原秀郷が鎮圧
・藤原純友の乱(939-941年): 瀬戸内海で藤原純友が海賊を率いて反乱
・これらをまとめて「承平・天慶の乱」と呼ぶ
武士団の中で勢力を伸ばしたのが源氏と平氏。源氏は東国を、平氏は西国を地盤としていました。
保元の乱(1156年)は、後白河天皇と崇徳上皇の対立に、藤原忠通・頼長の対立、源氏・平氏の家督争いが絡んだ複雑な戦いで、結果として後白河天皇側が勝利。これに参加した平清盛・源義朝が中央政界に進出するきっかけとなりました。
平治の乱(1159年)では、平清盛が源義朝を破り、武家として初めて中央政界の頂点に立ちました。1167年には太政大臣となり、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、その子(安徳天皇)を即位させて、藤原氏のような外戚政治を行いました。これが平氏政権です。しかし「平家にあらずんば人にあらず」と豪語するほどの権勢は、源頼朝らの反発を招き、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しました。
- 1086年: 白河上皇が院政開始
- 院政 = 上皇が藤原氏を排除して政治
- 武士の台頭: 平将門の乱・藤原純友の乱
- 2大武士団: 源氏(東国)・平氏(西国)
- 1156年: 保元の乱 → 武士の中央進出
- 1159年: 平治の乱 → 平清盛勝利
- 1167年: 平清盛が太政大臣(武家初)
- 1185年: 壇ノ浦の戦い、平氏滅亡
注意点 (混同しやすい)
① 「院政」は1086年・白河上皇から。覚えやすい年。② 「上皇」と「天皇」の違い: 上皇=退位した天皇、天皇=現在の天皇。院政では上皇が実権。③ 平将門の乱(935-940年・関東)と藤原純友の乱(939-941年・瀬戸内)を混同しない。両方合わせて承平・天慶の乱。④ 保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)の年・内容を区別。保元は天皇家+藤原氏の内紛、平治は武家同士の対立。⑤ 源氏は清和源氏、平氏は桓武平氏が代表。それぞれ天皇家から分かれた家系。⑥ 1185年=平氏滅亡=鎌倉幕府成立年(諸説あり)。
練習
- 院政を始めた上皇と開始年を答えよ。
- 平氏政権を確立した人物と、太政大臣就任年を答えよ。
- 武士の台頭を示す10世紀の代表的な反乱を2つ挙げよ。