日本 / 鎌倉時代 5 / 6

鎌倉幕府の滅亡

鎌倉幕府の滅亡

元寇後の御家人の不満と幕府への不信を背景に、後醍醐天皇が倒幕を企てます。約150年続いた鎌倉幕府は、1333年にあっけなく滅亡しました。

基本知識

14世紀初頭、皇位継承をめぐり持明院統(後深草天皇の子孫)と大覚寺統(亀山天皇の子孫)が対立(両統迭立)。大覚寺統の後醍醐天皇は、幕府による皇位干渉に憤り、倒幕を決意しました。
1324年の正中の変、1331年の元弘の変と二度の倒幕計画が失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流されますが、各地で倒幕の動きが広がります。畿内の悪党楠木正成(河内国)が千早城に立てこもって幕府軍を翻弄。隠岐を脱出した後醍醐に呼応して、有力御家人足利尊氏が京都の六波羅探題を攻め落とし、東国では新田義貞が鎌倉を攻撃。
1333年5月、鎌倉に攻め込まれた最後の執権北条高時は東勝寺で一族とともに自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。後醍醐天皇は京都に戻り、天皇親政の建武の新政を開始します。

📘 鎌倉滅亡までの年表
1324年 正中の変(後醍醐の最初の倒幕計画、失敗)
1331年 元弘の変(二度目の倒幕計画)
1332年 後醍醐天皇、隠岐に流される
1333年5月 足利尊氏が六波羅探題を攻略
1333年5月 新田義貞が鎌倉を攻略、北条高時自害=鎌倉幕府滅亡

深掘り (背景・影響)

鎌倉幕府滅亡の根本原因は、元寇後の御家人の窮乏幕府への不信です。当主北条高時は田楽や闘犬に熱中する暗愚な指導者で、政治の実権は内管領(うちのかんれい)長崎高資ら側近(御内人)が握り、有力御家人(外様御家人)の不満を高めていました。
足利尊氏はもともと幕府の有力御家人(源氏の名門)で、後醍醐追討のために派遣されたにもかかわらず、途中で後醍醐方に寝返ったことが決定打となりました。これは、御家人層が「もはや幕府は守るに値しない」と判断した象徴的な出来事でした。

💡 ポイント
  • 1333年=鎌倉幕府滅亡(「一味散々(1333)」と覚える)
  • 後醍醐天皇=大覚寺統、倒幕の中心人物
  • 楠木正成=河内の悪党、千早城の戦いで有名
  • 足利尊氏=六波羅探題を攻略(京都方面)
  • 新田義貞=鎌倉を攻略(東国方面)
  • 最後の執権=北条高時、東勝寺で自害
  • 両統迭立=持明院統と大覚寺統の交互即位

注意点 (混同しやすい)

正中の変(1324)元弘の変(1331)はどちらも後醍醐の倒幕計画。順序と内容を区別。
楠木正成(悪党出身)、足利尊氏(源氏名門・幕府御家人)、新田義貞(源氏一族・上野国)の3人の役割を区別。
持明院統と大覚寺統はどちらも皇統。後の南北朝につながる。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒した立役者だが、その後の建武の新政は3年で崩壊する。「成功した革命家」ではない点に注意。

練習

  1. 鎌倉幕府が滅亡した年と、最後の執権の名前を答えよ。
  2. 京都の六波羅探題を攻略した有力御家人の名前を答えよ。
  3. 後醍醐天皇の倒幕に協力した、河内の悪党の名前を答えよ。
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このレッスンのQ&A

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