ナポレオンとヨーロッパ再編
革命の混乱を収めたナポレオンは、ヨーロッパの大半を征服しながら革命の理念を広めました。彼の失敗が次の時代の革命運動を生みます。
基本知識
ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)はコルシカ島出身の砲兵将校。革命戦争で頭角を現し、1799年11月9日(ブリュメール18日)のクーデタで統領政府を樹立、第一統領となりました。1804年、国民投票で皇帝に即位(ナポレオン1世)。同年ナポレオン法典(フランス民法典)を公布、法の前の平等・所有権の不可侵・契約の自由・家族の重視などを定め、現代民法の原型となりました。1805年トラファルガー海戦(対英・ネルソン提督に敗北)、アウステルリッツの戦い(対露墺・大勝)、1806年に大陸封鎖令でイギリスを経済的に孤立させようとしました。最盛期にはヨーロッパ大陸の大半を支配。
1799年 ブリュメール18日のクーデタ
1804年 皇帝即位、ナポレオン法典
1805年 トラファルガー海戦(対英・敗北)、アウステルリッツの戦い(対露墺・大勝)
1806年 神聖ローマ帝国消滅、大陸封鎖令
1812年 ロシア遠征(モスクワ)→大敗
1813年 ライプチヒの戦い(諸国民戦争・敗北)
1814年 エルバ島流刑、ウィーン会議開始
1815年 百日天下→ワーテルローの戦い→セントヘレナ島流刑
深掘り (背景・影響)
1812年のロシア遠征で大軍60万人を率いてモスクワに到達するも、ロシアの焦土戦術と冬将軍で大敗。帰還できたのは数万人でした。1813年のライプチヒの戦い(諸国民戦争)で連合軍に敗れ、1814年に退位しエルバ島へ。1814-15年にウィーン会議(オーストリアの宰相メッテルニヒ主催)が開かれ、ナポレオン以前の正統主義と勢力均衡に基づくヨーロッパ再編が議論されました。1815年にナポレオンが再起(百日天下)したもののワーテルローの戦い(対英ウェリントン)で敗北、セントヘレナ島で1821年に死去。革命の理念は征服を通じて各地に広まり、ナショナリズム(民族主義)を呼び覚ます逆説的効果も持ちました。
- ブリュメール18日=1799年クーデタ
- 皇帝即位=1804年(ナポレオン1世)
- ナポレオン法典=1804年、現代民法の原型
- トラファルガー=ネルソン(英)、対仏勝利
- ロシア遠征失敗=1812年、冬将軍
- ワーテルロー=1815年、ウェリントン(英)
- ウィーン会議=メッテルニヒ主催、正統主義
注意点 (混同しやすい)
① ナポレオン1世(1804-15・皇帝)と甥ナポレオン3世(1852-70・第二帝政)は別人。② トラファルガー(1805・対英海戦・敗北)とアウステルリッツ(1805・対露墺・大勝)を区別。③ 大陸封鎖令(1806)はイギリスではなく欧州大陸諸国にイギリスとの貿易を禁じたもの。④ ウィーン体制(1815-)=メッテルニヒ主導の保守反動体制で、自由主義・ナショナリズムを抑圧。
練習
- 1804年に皇帝即位したフランスの軍人の名前は。
- 1815年にナポレオンが最終的に敗北した戦いの名称は。
- ナポレオン戦争後の欧州再編を議論した会議の主催者は誰か。