グレートゲーム
19世紀の中央アジアは、南下するロシア帝国と北上するイギリス帝国(インド支配の防衛)が激しく覇権を争う「グレートゲーム」の舞台となりました。この地政学的競争は現代にも影響を及ぼし続けています。
グレートゲームとは
- 19世紀初頭〜1907年:中央アジア・アフガニスタン・ペルシアをめぐるロシアとイギリスの戦略的競争
- ロシアの目標:不凍港の獲得・インド洋へのアクセス・「南下政策」
- イギリスの目標:インドへの陸路接近阻止・「インドの真珠」の防衛
- 「グレートゲーム(偉大なゲーム)」という言葉は英国側の諜報員キプリングの小説に由来する
アフガニスタンの緩衝地帯化
- 英露はアフガニスタンを直接征服せず、緩衝国(バッファー・ステート)として利用
- 第1次(1839〜42)・第2次(1878〜80)アフガン戦争:イギリスがアフガンへ介入したが、ともに失敗
- 1893年:デュランド・ラインがアフガニスタン・英領インド間の国境として引かれる(現パキスタン・アフガニスタン国境問題の原点)
- 1907年の英露協商でロシアがアフガニスタンへの不干渉を認め、グレートゲームは事実上終結
📘 重要事項
「ニュー・グレートゲーム」:冷戦終結後、1991年にソ連崩壊で中央アジア5カ国が独立すると、資源(石油・天然ガス)やパイプライン利権をめぐってアメリカ・ロシア・中国・EU・イランなどが競争を繰り広げ、これを19世紀になぞらえて「ニュー・グレートゲーム」と呼ぶ。地政学的競争の構図は現代も続いている。
「ニュー・グレートゲーム」:冷戦終結後、1991年にソ連崩壊で中央アジア5カ国が独立すると、資源(石油・天然ガス)やパイプライン利権をめぐってアメリカ・ロシア・中国・EU・イランなどが競争を繰り広げ、これを19世紀になぞらえて「ニュー・グレートゲーム」と呼ぶ。地政学的競争の構図は現代も続いている。
グレートゲームの遺産
グレートゲームが中央アジアに残した最大の遺産は恣意的に引かれた国境線です。民族・言語・部族の分布を無視して引かれた境界線は、後のソ連による「民族区分」と相まって、現在の中央アジア各国が抱える民族問題・国境紛争の遠因となっています。
練習
- グレートゲームにおけるロシアとイギリスそれぞれの戦略的目標を答えなさい。
- アフガニスタンが「緩衝国」として機能した理由を説明しなさい。
- 1907年の英露協商がグレートゲームに与えた影響を答えなさい。