推し活という行動を、心理学的に考えると面白いと思うことがある。
自分は推し活をする側ではないのだが、身近にしている人が何人かいて、その話を聞いているうちに「この熱量ってどこから来るんだろう」と純粋に気になるようになった。さらに調べていくと、宗教的な帰属行動と構造的に似ているという指摘がいくつかあって、それが面白かった。
最初に断っておきたいのは、推し活を否定したいわけではないということだ。誰かを応援することに意味を見出して、そこにお金や時間を使う行動は、それ自体は全く問題ない。ただ、その心理の構造を少し掘り下げてみると、人間の本能的なパターンが見えてきて、それが興味深かったという話をしたい。
推し活の市場規模と広がり
まず規模感を把握しておくと、矢野経済研究所の調査によれば日本のオタク市場(アニメ・マンガグッズ中心)は2023年に約6,000億円規模とされている。これにVTuberへの投げ銭、アイドルへの各種課金、クラウドファンディング的な応援消費などを加えると、広義の推し活経済圏は2兆円を超えるという試算もある。
属性も多様化していて、マクロミルの調査では20代女性の約40%が「推しがいる」と回答している。オタクカルチャーがマジョリティの感覚に溶け込んできた、という感じがある。
課金額の幅も大きくて、月数千円のグッズ購入から、総額数百万円に及ぶケースまで様々だ。後者のケースで「後悔していない」と言う人が存在することも、心理的に面白いポイントだと思う。
推し活の心理を構造的に見てみると
なぜ人は推しに課金するのか。「好きだから」という答えは正しいが、もう少し分解してみると、いくつかの欲求が複合的に動いていることが見えてくる。
まず「所属欲求」がある。同じ推しを持つファン同士は強力なコミュニティを形成する。ライブ会場でグッズを見せ合い、SNSで語り合い、遠征を共にする。「あの推しのファン」というアイデンティティが、強烈な帰属感をつくる。人間が集団に属したいという欲求は非常に強く、推し活はそれに応える仕組みを持っている。
次に「貢献感」がある。推しを「応援している」という感覚は、単純な消費ではなく「誰かの夢を支えている」という能動的な意味を持つ。ライブの動員数、CDの売上枚数、投票イベントでの順位——「自分の行動が直接影響する」と感じられるとき、ファンは強い達成感を得る。これはゲームのスコアに近い感覚かもしれない。
さらに「擬似的な親密感」がある。推しが「ファンのみんなのおかげ」と言う、握手会で目が合う、配信で名前を読み上げられる——これらは客観的には「本物の関係」ではないが、脳はそこまで厳密に区別しない。絆を感じるときに分泌されるとされるオキシトシンは、擬似的な親密感でも働く。
宗教社会学の「犠牲の経済学」との類似
宗教社会学に「犠牲の経済学」という概念がある。信仰集団の一員であることを示すために、金銭的・時間的なコストを払う行為だ。面白いのは、そのコストが高いほど、集団への帰属意識が強くなり、離脱しにくくなるという点だ。
推し活の構造を重ねてみると、符合するものが多い。
ファンコミュニティという共同体、推しという信仰対象、ライブやコンテンツという「聖典」に相当するもの、定期的な参加(ライブ・配信視聴)という礼拝的行為、課金・グッズ購入という奉納、運営会社やマネージャーという中間的な存在——これだけ重なると、「似ている」と言わざるを得ない。
ただ、これは侮辱のための比較ではない。人間が集団に帰属して、信仰対象を持ち、経済的犠牲を払うというパターンは、宗教という文化的装置の中で何千年も機能してきた。推し活は、その古来からのメカニズムを現代的なコンテンツに乗せて再現している、という見方ができる。
「高級な壺」との比較——何が違うのか
タイトルに書いた「高級な壺を買う信者」の話に戻る。霊感商法と推し活の心理構造を比べると、所属欲求・貢献感・擬似的親密感・サンクコスト(ここまで払ったのにやめられない)——これらはどちらにも当てはまる。
では何が違うか、というと、自分が考える最大の違いは「詐欺かどうか」だ。
霊感商法は「壺を買えば守られる」という偽りの因果関係を売っている。これは詐欺だ。一方、推し活のコンテンツは(一部の悪質な商法を除けば)実在する。ライブは開催され、グッズは届き、配信は更新される。契約は履行されている。
さらに、本人が「あの課金は幸せだった」と言うなら、その主観的な効用は実在する。客観的な損得計算とは別に、「そこに意味を見出せた」という体験は本物だ。そこは霊感商法の被害者とは大きく違う。
ただ、構造的な類似があるということは、同じ「抜け出しにくさ」も持ちうるということだ。サンクコスト効果(ここまで払ったのに今さらやめられない)、合理化の語彙(「経済を回している」「推しへの還元」)、コミュニティへの帰属感からの離脱の難しさ——これらは霊感商法の被害者が経験することとも重なる。
「選んでいる」のか「やめられない」のか
推し活をしている人に「やめようと思えばやめられる?」と聞いてみると、答えはおそらく人によって大きく違う。「いつでもやめられる、でも楽しいから続けている」という人と、「やめたいけどやめられない」という人では、体験の質が全然違う。
前者は趣味として機能していて、後者は依存的な状態に近づいている可能性がある。この2つは外から見るとなかなか区別がつかないし、当人も気づきにくいことがある。
別に推し活をやめる必要はないし、続けることを責めたいわけでもない。ただ、「自分が選んでいるのか、やめられないのか」という問いを時々持てるかどうかは、けっこう大事なことだと思う。その問いを持てているうちは、まだ主体性がある状態だ。
推しへの熱量は本物だし、そこから得られるものも確かにある。だからこそ、その熱量の構造を客観的に見ることができると、より健全な形で楽しめるのではないか——そういう話として読んでもらえたら、書いた甲斐がある。
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