MrBeastの動画を、少し前に初めてちゃんと見た。「100人が孤島で生き残る」系のやつを。
見始めて数分で、「続きが気になって仕方がない」という状態になった。構成がうまい。感情の引っ張り方がうまい。不快な感じは全くしない。純粋に面白い。
でも見終わった後、何か学んだり考えたりしたことは、ほとんどなかった。心地よく興奮して、終わった。
その体験を思い返しながら、「なぜこれが数百億円のビジネスになるのか」を考え始めたのが、この記事のきっかけだ。才能の問題なのか、運なのか、それとも別の何かなのか。
「バカ向けコンテンツ」という言葉について、先に説明しておく
タイトルに「バカ向けのコンテンツ」という言葉を使ったので、先に定義しておきたい。視聴者を馬鹿にしているわけではない。
ここで言う「バカ向け」は、「認知負荷が低く、即時の感情的報酬が高いコンテンツ」の意味で使っている。別の言い方をすれば、「あまり考えなくても楽しめる、感情が直接動くコンテンツ」だ。
このタイプのコンテンツを楽しむことが悪いわけでも、そういうコンテンツを作ることが悪いわけでもない。ただ、市場の構造として、このタイプのコンテンツが圧倒的に大きな収益を生む仕組みになっている——それを観察したい。
人間の脳と、アルゴリズムの設計
人間の脳は、「思考」より「反応」が得意だ。驚き、笑い、怒り、感動——これらは意識的な思考なしに、直接ドーパミン系を刺激する。長い文章を読んで理解することより、1秒の爆発の動画のほうが、脳の報酬系は強く反応することが多い。
YouTubeのアルゴリズムが最大化しようとするのは、視聴時間とクリック率だ。クリック率を上げるには、「続きが気になる」という感覚を瞬時に作る必要がある。「100人が〇〇で生き残る」「24時間〇〇し続けたら」「1億円を〇〇したら何が起きるか」——これらのフォーマットは、脳の「知りたい」という本能的な回路を直接刺激する。
TikTokはさらに極端だ。15秒という短さは、「見終わる前に次が来る」くらいのテンポで、ドーパミン→スワイプ→ドーパミンのサイクルを最短で回すように設計されている。このサイクルは、快楽の強度より頻度を優先する。中毒性が高い理由はここにある。
一方、「気候変動の歴史的背景と今後100年の予測」というコンテンツを見るには、ある程度の予備知識と、理解しようとする意志が必要だ。感情的な報酬は遅延する。途中で離脱する人が多い。アルゴリズム的には評価されにくい。
市場は数の論理で動く。認知負荷の低い快楽を求める人口は、高い教養を求める人口を圧倒的に上回る。これは視聴者の「質」の問題ではなく、人間の脳の設計の問題だ。
広告収益モデルと、その必然的な帰結
YouTubeの収益は、再生数と広告単価(CPM)の掛け算だ。CPMは視聴者の属性によって変わるが、数千万再生という絶対値の前では、単価の差は吹き飛ぶことが多い。
MrBeastが一本の動画で数千万再生を生み出せるとき、そこには相当の収益が発生する。さらにスポンサーシップ、自社ブランド、フードビジネスなど収益を多角化しているから、YouTubeの広告収益はその一部に過ぎない。
PBSドキュメンタリーの制作チームは非営利組織で、政府補助と寄付で成り立っている。なぜ商業モデルに乗れないかというと、彼らのコンテンツは「ながら見」ができず、集中して見る必要があり、視聴数が構造的に少ないからだ。これは質の低さではない。市場のインセンティブ構造との相性の問題だ。
日本でも同じことが起きている。かつてニコニコ動画で盛んだった解説系・教育系コンテンツの作り手たちが、YouTubeの「バズりやすいフォーマット」に乗り換えていった例は多い。サムネイルをセンセーショナルにして、タイトルを煽って、内容を薄めて——そうしないと再生数が稼げないから。これは個人の倫理の問題ではなく、構造が生み出す行動変容だ。
日本のコンテンツ市場で起きていること
日本のテレビを10年前と比べると、「食べる・驚く・泣く」の割合が増えている。これは制作者の質が下がったのではない。視聴率競争の結果として、最も「視聴者を離さない」コンテンツが生き残った帰結だ。
芸人が多数出るバラエティー、グルメロケ、感動実話の再現ドラマ——これらは本当に面白い。認知負荷が低く、誰でも楽しめる。だから視聴率が取れて、広告費が入って、続く。
NHKの教養番組やドキュメンタリーは、受信料という仕組みで維持されている。民放が広告収益のために作れないものを、市場の外の資金で支えるという制度設計だ。これ自体は理にかなっていると思う。でも、その受信料制度が揺らいでいる現状で、この問題は複雑さを増している。
YouTubeでも、「学びになる動画」を作ろうとしているチャンネルが、サムネイルは「衝撃」「驚愕」「知らないと損」になっていく。内容がどれだけ誠実でも、クリックされなければ再生されない。クリックされなければ存在しないのと変わらない。この引力はかなり強い。
「良いものを作ること」の意味を問い直す
「良いものはいつか評価される」という信仰は、インターネット以前の世界では一定の根拠があった。流通の窓口が限られていたから、質が重要な差別化要因になった。でも今は、コンテンツの数が溢れていて、「見つけてもらえるかどうか」がアルゴリズムで決まる。質は必要条件だが、十分条件ではない。
では、良質なコンテンツを作ることに意味はないのか。
あると思っている。ただし、その意味を正確に見ておく必要がある。
「大富豪への道」ではない、ということは先に認めておく。でも別の価値を生む。信頼が積み上がる。少ないが深く関与する読者やコミュニティが育つ。「この人の言うことは信頼できる」という評判は、時間をかけてゆっくり作られる。それはアルゴリズムが測定しにくい資産だ。
サブスタックやnote、有料メルマガという直接課金モデルは、広告収益でなく「読者からの直接支払い」で成立する。少数の深い関与者から収益を得る構造は、バズりを前提にしていない。規模は小さいが、「低俗化競争」とは別のゲームルールで戦えるフィールドだ。
もう一つ見落としがちなのは、良質なコンテンツを作り続けることの「作る側への効果」だ。自分の思考が整理される。深い問いを立てる習慣がつく。自分自身の知的体力が上がる。これは金銭換算しにくいけれど、確かに価値がある。
構造を知った上で、どう動くか
資本主義の市場原理が「認知負荷が低く、感情的報酬が高いコンテンツ」を最大化するように設計されているのは事実だと思っている。これは短期的には変わらないと思う。
でも、その構造を知った上で「それでも作る」と決めることは、無知のまま頑張り続けることとは違う。
「バズらなくても意味がある」と言いたいのではない。バズることも、収益を得ることも、全然悪くない。ただ、「バズらないと意味がない」という感覚に飲み込まれて、自分が本当に作りたいものから離れていくことには、少し抵抗したい。
MrBeastが稼ぐ構造は変わらないかもしれない。PBSが商業的に勝てない構造も変わらないかもしれない。でも、「その二つの間のどこかで、自分は何を作るか」という問いに答えることは、できる。
絶望は、認識として持っておいていい。でも、行動の出発点にはしたくない。
「良いものを作ろうとしている人間が、どこかで少しずつ積み上げていく」——その小さな営みが、長期的には何かを変えると、根拠はないけれど信じている。
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