オスマン帝国の成立とコンスタンティノープル征服
13世紀末、アナトリア(小アジア)西部に誕生したオスマン朝は、150年あまりでビザンツ帝国を滅ぼし、イスラーム世界最大の帝国へと成長しました。
オスマン朝の成立
- 1299年頃:オスマン1世がアナトリアのトルコ系小国から独立、オスマン朝(帝国)を建国
- ガーズィー(聖戦士)の理念:ビザンツ帝国との国境地帯で戦うトルコ系戦士を吸収
- 1354年:ヨーロッパ側(バルカン半島)へ進出開始
- 1389年:コソヴォの戦いでバルカンのキリスト教諸国連合を撃破
- 1402年:ティムールにアンカラで敗れ一時後退(空位時代)
コンスタンティノープル征服(1453年)
- メフメト2世(征服王)が大砲でテオドシウスの城壁を突破
- 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が滅亡→中世ヨーロッパの終焉の象徴
- コンスタンティノープルはイスタンブールに改名→オスマン帝国の首都
- ギリシャ人・アルメニア人・ユダヤ人が共存する多民族都市へ
📘 例題①
コンスタンティノープル征服が「世界史の転換点」とされる理由を2点挙げなさい。
解答:①東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が滅亡し、1000年以上続いたローマ帝国の法統が途絶えた(中世の終わりの象徴)。②ビザンツの学者が西欧に亡命し、ギリシャ古典を持ち込んだことがイタリア・ルネサンスを加速させたと言われる。また黒海〜地中海を結ぶ東方貿易路がオスマン帝国に掌握され、西欧が新航路開拓(大航海時代)を急いだ背景にもなった。
コンスタンティノープル征服が「世界史の転換点」とされる理由を2点挙げなさい。
解答:①東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が滅亡し、1000年以上続いたローマ帝国の法統が途絶えた(中世の終わりの象徴)。②ビザンツの学者が西欧に亡命し、ギリシャ古典を持ち込んだことがイタリア・ルネサンスを加速させたと言われる。また黒海〜地中海を結ぶ東方貿易路がオスマン帝国に掌握され、西欧が新航路開拓(大航海時代)を急いだ背景にもなった。
💡 ポイント
- 1299年頃オスマン1世建国、1453年コンスタンティノープル征服
- メフメト2世が大砲で鉄壁の城壁を突破
- ビザンツ滅亡→中世の終わり・ルネサンス加速・大航海時代の契機
- コンスタンティノープル→イスタンブールに改名、多民族都市へ
練習問題
- コンスタンティノープルを征服したオスマン帝国のスルタンは誰か。
- この征服が大航海時代に与えた間接的な影響を答えなさい。
- ビザンツ帝国の別名と、その滅亡した年を答えなさい。
解答・解説
- 解答:メフメト2世(征服王 "el-Fâtih")
解説:大砲(ウルバンの大砲)でテオドシウスの城壁を突破した。 - 解答:オスマン帝国が東地中海の交易路を支配したため、ヨーロッパ商人がイスラーム商人を介さずにアジアへ直接到達する新航路を探した→ポルトガル・スペインによる大航海時代(コロンブス・バスコ・ダ・ガマ)の動機のひとつ。
解説:「オスマンが大航海時代を促した」は過去の通説で近年は異論もあるが試験では重要。 - 解答:東ローマ帝国、1453年
解説:330年にコンスタンティヌス1世が建設した都市を首都とした帝国。西ローマ帝国(476年滅亡)とは異なる。