オスマン帝国の最盛期(スレイマン1世)
16世紀前半に君臨したスレイマン1世の時代が、オスマン帝国の絶頂期です。東は現在のイラク・クウェート、西はハンガリー・アルジェリアに及ぶ広大な版図と、精緻な法制度・文化で知られます。
スレイマン1世(在位1520〜1566年)
- ヨーロッパでは「壮麗者(マニフィック)」、オスマン語では「カーヌーニー(立法者)」と呼ばれた
- 1521年:ベオグラード征服
- 1526年:モハーチの戦いでハンガリー軍を撃破→中央ヨーロッパへ進出
- 1529年:第1次ウィーン包囲(撤退)→「ヨーロッパ深部へのイスラーム最前線」
- 地中海でも活躍:プレヴェザの海戦(1538)でスペイン・ヴェネツィア連合艦隊を撃破
内政と制度
- ミッレト制:宗教共同体(ミッレト)に自治を認める多元的支配(ユダヤ・キリスト教各宗派)
- デヴシルメ(少年徴用制度):バルカンのキリスト教徒の少年を集め、改宗・教育してイェニチェリ(常備歩兵)や官僚に育成
- スレイマニェ・モスク:イスタンブールに建設した壮大な帝国モスク(建築家スィナン設計)
📘 例題①
デヴシルメ制度の内容と、その目的(スルタンにとってのメリット)を説明しなさい。
解答:デヴシルメとはバルカン半島のキリスト教徒家庭から少年を徴発し、イスラームに改宗させた上で宮廷で教育・訓練し、イェニチェリ(常備歩兵団)や高級官僚として登用する制度。スルタンにとっては、アナトリアのトルコ系貴族(既存の権力者)に依存せず、スルタンだけへの忠誠心を持つ精鋭集団を組成できるというメリットがあった。
デヴシルメ制度の内容と、その目的(スルタンにとってのメリット)を説明しなさい。
解答:デヴシルメとはバルカン半島のキリスト教徒家庭から少年を徴発し、イスラームに改宗させた上で宮廷で教育・訓練し、イェニチェリ(常備歩兵団)や高級官僚として登用する制度。スルタンにとっては、アナトリアのトルコ系貴族(既存の権力者)に依存せず、スルタンだけへの忠誠心を持つ精鋭集団を組成できるというメリットがあった。
💡 ポイント
- スレイマン1世:在位1520〜1566、最盛期のスルタン
- 1529年第1次ウィーン包囲がオスマンのヨーロッパ進出の極点
- ミッレト制:宗教共同体に自治→多民族帝国の安定基盤
- デヴシルメ:キリスト教徒少年を改宗・教育→イェニチェリ・官僚に
練習問題
- 1526年のモハーチの戦いの相手国と結果を答えなさい。
- ミッレト制とは何か説明しなさい。
- スレイマン1世がヨーロッパ側で「壮麗者」、オスマン側で「立法者」と呼ばれた理由をそれぞれ答えなさい。
解答・解説
- 解答:ハンガリー(ヤギェウォ朝)を撃破。ハンガリーの大半がオスマン帝国の支配下に入り、中央ヨーロッパへの進出路を確保した。
解説:ハプスブルク帝国との対立の始まりでもある。 - 解答:帝国内のユダヤ教・キリスト教などの宗教共同体(ミッレト)に内部自治(法・教育・婚姻など)を認める制度。各共同体の首長がスルタンに対して共同体全体の責任を負う。
解説:多民族・多宗教の帝国統治を安定させる仕組み。 - 解答:ヨーロッパ側「壮麗者」:華やかな宮廷・建築・外交などその豪華さから。オスマン側「立法者」:カーヌーン(世俗法典)を整備してイスラーム法(シャリーア)と並ぶ体系的な法制度を構築したことから。
解説:両者の呼称が統治の二つの側面を示している。