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平安京遷都と桓武天皇の改革

平安京遷都と桓武天皇の改革

794年、桓武天皇は新しい都・平安京に遷都しました。これは奈良の仏教勢力の影響から逃れ、律令政治を立て直すための大改革でした。

基本知識

平安時代は、794年の平安京遷都から1185年(または1192年)の鎌倉幕府成立までの約400年間を指します。
桓武天皇(かんむてんのう)は、奈良時代末期の道鏡(どうきょう)事件などで政治が乱れたため、まず784年に長岡京に遷都しましたが、暗殺事件などで頓挫し、改めて794年に平安京に遷都しました。平安京は現在の京都市にあたります。
桓武天皇の改革:
平安京遷都(794年) - 奈良の仏教勢力を排除
蝦夷征討(えみしせいとう) - 東北の蝦夷を支配下に
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命(797年)
軍団制廃止・健児(こんでい)制導入 - 兵制改革
・班田収授を建て直そうとするも、結果的に難航

📘 平安初期の重要年表
784年 桓武天皇、長岡京に遷都
794年 平安京に遷都(平安時代開始)
797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される
802年 坂上田村麻呂、胆沢城を築く(蝦夷を制圧)
805年 最澄、唐から帰国(天台宗)
806年 空海、唐から帰国(真言宗)
810年 平城太上天皇の変(薬子の変)
894年 菅原道真の建言で遣唐使廃止

深掘り (背景・影響)

桓武天皇が平安京に遷都した理由は複数あります:
仏教勢力の影響を断つ: 奈良の大寺院(東大寺・興福寺など)が政治に介入していた
道鏡事件の教訓: 称徳天皇に寵愛された僧道鏡が皇位を狙うほど力を持った
新しい政治: 律令政治を立て直すための心機一転
地理的優位: 京都盆地は水利が良く、防御にも適していた
平安京は東西4.5km、南北5.2kmの規模で、平城京とほぼ同じ条坊制を採用しました。北端中央に大内裏(天皇の宮殿)を置き、南に向かって朱雀大路(幅約84m)が走り、その両側に右京・左京が広がります。「東山三十六峰を望み、京の水流豊か」と評される好立地でした。
蝦夷(えみし)とは、当時の東北地方に住んでいた人々のことで、ヤマト政権の支配を受けていませんでした。桓武天皇は彼らを服属させるため、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)征夷大将軍に任命して遠征させました。田村麻呂は802年に胆沢城(いさわじょう、現在の岩手県奥州市)を築き、蝦夷の指導者アテルイを降伏させました。アテルイは京都に連行されて処刑されましたが、田村麻呂はアテルイの助命を朝廷に願ったとも伝えられます。
桓武天皇は徴兵制(軍団制)を廃止し、地方の豪族の子弟から「健児(こんでい)」を選んで地域防衛を任せる健児制を導入しました。これは農民の負担軽減のためでしたが、結果として武士が登場する素地を作ったとも言えます。

💡 ポイント
  • 794年: 桓武天皇が平安京遷都
  • 長岡京(784年)→ 平安京(794年)
  • 遷都の目的: 仏教勢力排除・心機一転・律令再建
  • 蝦夷征討 = 坂上田村麻呂が征夷大将軍に
  • 802年: 胆沢城を築き、アテルイ降伏
  • 健児制 = 軍団制廃止、地方豪族子弟を兵に
  • 平安京 = 現在の京都市、平安時代400年の都

注意点 (混同しやすい)

① 「平安京」(794年・京都)と「平城京」(710年・奈良)を混同しない。平安京=桓武天皇、平城京=元明天皇。② 長岡京(784〜794年)の10年間も覚えておく。③ 「征夷大将軍」は最初は蝦夷征討の臨時職。後の鎌倉幕府の将軍と意味が違う。④ 「蝦夷(えみし)」と北海道の「蝦夷(えぞ)」は別物。読み方も違う。⑤ アテルイは蝦夷の指導者で、坂上田村麻呂に降伏した。歴史上、東北の英雄として再評価。⑥ 「健児」は「こんでい」と読む。「けんじ」ではない。

練習

  1. 平安京に遷都した天皇と遷都した年を答えよ。
  2. 蝦夷征討で活躍し、征夷大将軍に任命された人物を答えよ。
  3. 桓武天皇が平安京に遷都した目的を2つ挙げよ。

このレッスンのQ&A

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