日本 / 平安時代 2 / 6

藤原氏の摂関政治

藤原氏の摂関政治

平安時代中期、藤原氏は娘を天皇に嫁がせて外戚となり、摂政・関白として実権を握りました。藤原道長・頼通父子のときに最盛期を迎えた摂関政治を見ていきましょう。

基本知識

摂関政治(せっかんせいじ)とは、摂政(せっしょう)関白(かんぱく)の地位を独占して政治を行う政治形態です。
摂政: 天皇が幼少のとき政務を代行する役職
関白: 成人した天皇を補佐する役職
藤原氏は娘を天皇に嫁がせ、生まれた子(皇子)が天皇になると、その外祖父として摂政・関白になりました。これにより、天皇の権威を背景に実質的な政権を運営したのです。
主な藤原氏:
藤原良房(よしふさ): 858年、人臣初の摂政(清和天皇の外祖父)
藤原基経(もとつね): 887年、初の関白
藤原道長(みちなが): 4人の娘を天皇・皇太子の妃に、最盛期を築く
藤原頼通(よりみち): 道長の子、約50年間摂関を務める
道長は「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という有名な歌を詠み、絶頂期の権勢を表現しました。

📘 摂関政治の年表
858年 藤原良房が人臣初の摂政となる
887年 藤原基経が初の関白となる
894年 菅原道真の建言で遣唐使廃止
901年 菅原道真、太宰府に左遷
969年 安和の変、源高明が左遷され藤原氏の独占完成
1016年 藤原道長、摂政となる(道長の絶頂期)
1018年 道長「望月の歌」を詠む
1052年 藤原頼通、平等院鳳凰堂を建立
1086年 白河上皇の院政開始、摂関政治の終焉

深掘り (背景・影響)

摂関政治の仕組みは、巧妙な家族戦略にありました。藤原氏の戦略:
① 娘を天皇に嫁がせる
② 娘が皇子を産む
③ その皇子を即位させる
④ 自分は外祖父として摂政・関白になる
⑤ 政治の実権を握る
この「外戚政治」は、藤原氏が天皇家と血縁的に深く結びついていたからこそ可能でした。藤原道長は、4人の娘を立后させ、3人の天皇の外祖父となるという離れ業をやってのけました。彼の絶頂期、貴族たちは道長の邸宅に詰めかけ、その意向を伺いました。
道長の権勢を示す「望月の歌」(1018年): 「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば
(この世は私の世のようなものだ。満月のように、欠けたところがないと思える)
道長の子頼通は約50年にわたって摂関を務めましたが、頼通の娘には男子が生まれず、藤原氏の血を引かない後三条天皇が即位したことで、摂関政治は衰退していきます。
菅原道真(すがわらのみちざね)は、藤原氏に対抗できる学者出身の政治家でしたが、藤原時平の策謀により901年に大宰府に左遷され、903年に憂死しました。彼の祟りを恐れて天満宮(てんまんぐう)に祀られ、現在は学問の神として崇められています。

💡 ポイント
  • 摂関政治 = 摂政・関白を藤原氏が独占
  • 戦略: 娘を天皇に嫁がせ、外祖父として実権
  • 藤原良房(858年)= 人臣初の摂政
  • 藤原基経(887年)= 初の関白
  • 藤原道長 = 最盛期、4人の娘を立后
  • 道長「望月の歌」(1018年)
  • 藤原頼通 = 道長の子、平等院鳳凰堂建立
  • 菅原道真 = 901年大宰府左遷、後に天満宮の神

注意点 (混同しやすい)

① 摂政と関白の違い: 摂政=天皇が幼少のとき、関白=天皇が成人のとき。② 道長と頼通は父子。道長が父、頼通が子。③ 「外戚」とは「母方の親戚」の意。藤原氏は娘を通じて外戚となった。④ 「望月の歌」は1018年。道長の絶頂期。⑤ 菅原道真は学者出身の政治家。藤原氏ではない。901年大宰府左遷を覚える。⑥ 摂関政治は形式的には院政が始まる1086年まで続くが、実質的な衰退は頼通の晩年から。

練習

  1. 摂政と関白の違いを説明せよ。
  2. 藤原氏が天皇家との関係をどのように利用して権力を握ったか説明せよ。
  3. 藤原道長が1018年に詠んだ歌の通称と、それが示す状況を答えよ。

このレッスンのQ&A

読み込み中...