北条氏の執権政治
源頼朝の死後、源氏将軍はわずか3代で途絶え、頼朝の妻北条政子の実家・北条氏が幕府の実権を握ります。執権という地位を世襲して幕府を動かす「執権政治」が始まりました。
基本知識
1199年、源頼朝が死ぬと、2代将軍源頼家、3代源実朝と続きますが、頼家は伊豆修禅寺で暗殺され、実朝は1219年に鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺され源氏は断絶。北条氏が代々執権(将軍を補佐する最高職)を世襲しました。
1221年、後鳥羽上皇が幕府打倒を企てて挙兵した承久の乱が起こりますが、北条政子の演説で結束した幕府軍が朝廷軍を打ち破り、上皇は隠岐に流されました。これ以降、幕府は朝廷より優位に立ち、京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視しました。
3代執権北条泰時は1232年、武士の慣習をまとめた日本初の武家法御成敗式目(貞永式目)を制定。51か条からなり、御家人の領地相続や紛争解決の基準を示しました。
1203年 北条時政が初代執権に就任
1219年 源実朝暗殺、源氏将軍断絶
1221年 承久の乱(後鳥羽上皇 vs 北条義時)
1221年 六波羅探題の設置
1232年 御成敗式目の制定(北条泰時)
深掘り (背景・影響)
承久の乱の意義は大きく、これにより武家政権が朝廷より優位に立つという歴史的な転換が起きました。上皇方の所領3,000か所が没収され、東国武士が西国にも地頭として送り込まれ、幕府の支配が全国に及びました。
御成敗式目は、それまでの道理(武士の慣習)と頼朝以来の先例を成文化したもので、後の武家法のモデルとなりました。室町幕府の建武式目、戦国大名の分国法、江戸幕府の武家諸法度もこの流れを汲みます。
- 初代執権=北条時政、2代=北条義時、3代=北条泰時
- 1221年=承久の乱、後鳥羽上皇 vs 北条義時
- 承久の乱の結果、六波羅探題を京都に設置
- 1232年=御成敗式目(貞永式目)、51か条、北条泰時
- 御成敗式目=日本初の武家法、後の武家法のモデル
- 北条政子=頼朝の妻、「尼将軍」と呼ばれた
- 源実朝=3代将軍、『金槐和歌集』を残した歌人でもある
注意点 (混同しやすい)
① 北条政子(頼朝の妻)と北条時政(政子の父・初代執権)を混同しない。
② 承久の乱(1221年)と後の応仁の乱(1467年)は時代も性質も全く異なる。承久=朝廷 vs 幕府、応仁=室町幕府内の権力争い。
③ 六波羅探題は京都、鎌倉は幕府本拠地。両方が幕府の機関である点に注意。
④ 御成敗式目は武士のための法律で、朝廷や公家には適用されない。公家の法律(公家法)とは別立てだった。
練習
- 承久の乱が起こった年と、首謀者の上皇の名前を答えよ。
- 御成敗式目を制定した執権は誰か。
- 承久の乱後、京都に置かれた幕府の機関の名前を答えよ。