江戸幕府の成立と幕藩体制
1600年の関ヶ原の戦いから1603年の開府、そして1615年の大坂夏の陣まで、徳川家康は周到な準備の末に江戸幕府を確立しました。約260年続く泰平の世の幕開けです。
基本知識
徳川家康(1543-1616)は三河(愛知県岡崎)生まれ。今川氏の人質→織田信長と同盟→秀吉に臣従→関東250万石の大大名へ。秀吉死後、五大老の筆頭として実権を握りました。
1600年:関ヶ原の戦い — 美濃の関ヶ原で東軍(徳川家康、約8万)と西軍(石田三成、約10万)が激突。小早川秀秋の寝返りで東軍勝利。「天下分け目の戦い」と呼ばれる。
1603年:江戸開府 — 家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開く。
1605年:将軍職譲渡 — 家康はわずか2年で子の徳川秀忠に将軍職を譲り、自らは大御所として実権を握る(徳川氏世襲を明示)。
1614-1615年:大坂の陣 — 冬の陣(1614)、夏の陣(1615)で豊臣秀頼・淀殿を滅ぼし、豊臣家断絶。
1615年:武家諸法度(秀忠時代、家康が起草)、禁中並公家諸法度を制定。
1616年:家康死去(享年75)、東照大権現として日光東照宮に祀られる。
幕藩体制:江戸幕府が直接支配する幕府領(天領)と、約260の藩(大名領)からなる支配体制。
大名の分類:
・親藩=徳川一門(尾張・紀伊・水戸の御三家が筆頭)
・譜代=関ヶ原以前から徳川に仕えた大名
・外様=関ヶ原以後に臣従した大名(島津、毛利、伊達など)、要所から遠ざけられる
1600年 関ヶ原の戦い
1603年 徳川家康、征夷大将軍に=江戸開府
1605年 秀忠が2代将軍に(家康は大御所)
1614-1615年 大坂の陣、豊臣家滅亡
1615年 武家諸法度・禁中並公家諸法度
1616年 家康死去
1635年 武家諸法度に参勤交代を明文化(3代家光)
深掘り (背景・影響)
江戸幕府の統治機構:
・将軍(政治の頂点)
・老中(政治の最高責任者、4-5名)
・若年寄(老中の補佐)
・大老(臨時の最高職、酒井・井伊・土井・堀田など特定の家から選ばれる)
・三奉行=寺社奉行(寺社・関八州外)・町奉行(江戸の行政・司法)・勘定奉行(財政・天領)
・京都所司代(朝廷・西国大名の監視)
・大坂城代(西国の軍事)
参勤交代(1635年、3代家光が制度化)は、大名の妻子を江戸に住まわせ、大名自身は1年おきに国元と江戸を往復させる制度。表向きは将軍への奉公だが、実質は大名の財政疲弊と反乱防止が目的でした。これにより五街道沿いの宿場町が発展しました。
武家諸法度は大名統制の基本法で、城の修築禁止、私婚禁止、結党禁止などを定めました。違反者は厳しく処罰され、改易(領地没収)、転封(領地替え)が盛んに行われました。
朝廷統制では禁中並公家諸法度(1615)を制定し、天皇・公家の権限を学問・儀礼に限定。京都所司代が監視しました。
- 1600年=関ヶ原の戦い、東軍(家康)vs 西軍(三成)
- 1603年=江戸開府、家康が征夷大将軍
- 1615年=大坂夏の陣、豊臣家滅亡
- 幕藩体制=幕府領(天領)+藩(大名領)
- 親藩・譜代・外様の3区分
- 御三家=尾張・紀伊・水戸
- 武家諸法度=大名統制、1635年に参勤交代明文化
- 禁中並公家諸法度=朝廷統制
注意点 (混同しやすい)
① 関ヶ原(1600)=家康 vs 三成、大坂の陣(1614-1615)=家康 vs 秀頼。両者を区別。
② 老中(常設の最高職、複数名)と大老(臨時、特定家から)を区別。井伊直弼(桜田門外の変)などが大老。
③ 御三家(尾張・紀伊・水戸)と、後の御三卿(田安・一橋・清水)(8代吉宗が設置)を区別。
④ 親藩・譜代・外様の3区分は厳密に。外様は関ヶ原以後に臣従した大名で、要所(江戸近辺)に配置されない。
練習
- 1600年の関ヶ原の戦いで、東軍と西軍の総大将の名前をそれぞれ答えよ。
- 御三家を構成する三つの藩(大名家)の名前を答えよ。
- 大名が江戸と国元を1年おきに往復した制度の名前と、その制度化を行った将軍の名前を答えよ。