鎖国の完成と身分制度
江戸幕府は外国との関係を制限し、鎖国を完成させました。同時に、士農工商の身分制度を厳格に固定し、約260年の安定の基盤としました。
基本知識
鎖国(さこく)の完成までの経過:
1612年:禁教令(直轄領) — 家康がキリスト教を禁止。
1614年:禁教令(全国) — 全国にキリスト教禁止を拡大。高山右近らをマニラへ追放。
1616年:中国船以外の寄港地を平戸・長崎に限定。
1623年:イギリス商館閉鎖(オランダとの貿易競争に敗れる)。
1624年:スペイン船の来航禁止。
1633年:奉書船以外の海外渡航を禁止(第1次鎖国令)。
1635年:日本人の海外渡航・帰国を全面禁止(第3次鎖国令)、武家諸法度に参勤交代を明文化。
1637-1638年:島原・天草一揆 — 天草四郎時貞を首領とするキリシタン・農民の大反乱(約3万7千人)。原城に籠もるが、幕府軍12万により鎮圧。
1639年:ポルトガル船の来航禁止(第5次鎖国令)。
1641年:オランダ商館を平戸から長崎の出島に移転 — 鎖国完成。
鎖国後の対外関係(四つの口):
① 長崎 — オランダ・中国との貿易(幕府直轄)
② 対馬(宗氏) — 朝鮮(李氏朝鮮)との関係。朝鮮通信使を江戸に派遣
③ 薩摩(島津氏) — 1609年に琉球王国を征服、両属関係
④ 松前(松前氏) — アイヌとの交易、1669年シャクシャインの戦い
身分制度(士農工商):
・武士(約7%) — 苗字帯刀、支配階級
・農民(約85%) — 五人組で連帯責任、年貢を負担
・町人(職人・商人)(約7%) — 都市に居住
・えた・ひにん — 差別された人々(明治の解放令まで)
1612-1614年 禁教令
1635年 日本人の海外渡航・帰国禁止
1637-1638年 島原・天草一揆
1639年 ポルトガル船来航禁止
1641年 オランダ商館を長崎出島へ=鎖国完成
四つの口 長崎・対馬・薩摩・松前
深掘り (背景・影響)
鎖国の目的は、
① キリスト教の徹底排除(信徒の信仰心が幕府支配を脅かすと判断)
② 大名の貿易独占による富強化の防止(西国大名が独自に貿易するのを禁じ、幕府が貿易利益を独占)
③ 南蛮人との通商によるトラブル防止
でした。
鎖国は完全な「閉鎖」ではなく、「幕府が貿易を独占的に管理」する体制でした。オランダ商館からは『オランダ風説書』で世界情勢の情報が入り、朝鮮通信使(将軍代替わりごとに来日、計12回)を通じて文化交流もありました。
島原・天草一揆は鎖国徹底化の決定打でした。圧政と飢饉とキリシタン弾圧が重なり、天草四郎(益田時貞)を首領に4ヶ月にわたって原城に籠城。幕府は12万の大軍を動員し、ようやく鎮圧。これ以降、幕府は絵踏(えぶみ)(キリスト像を踏ませる)、宗門改(寺請制度、すべての人を仏教寺院に登録)を徹底しました。
身分制度の核心は「家」と「村」でした。武士は家を継ぐことが至上命題、農民は村に縛られて連帯責任(五人組)を負わされました。これにより社会の流動性が低くなり、約260年の安定が保たれましたが、明治維新期に大きな変革を要する原因にもなりました。
- 1612-1614年=禁教令、キリスト教禁止
- 1635年=日本人の海外渡航・帰国禁止
- 1637-1638年=島原・天草一揆、天草四郎
- 1639年=ポルトガル船来航禁止
- 1641年=オランダ商館を長崎出島へ、鎖国完成
- 四つの口=長崎・対馬・薩摩・松前
- 絵踏・宗門改=キリスト教信徒の摘発
- 士農工商の身分制度、五人組
注意点 (混同しやすい)
① 禁教令(1612-1614、家康・秀忠)とバテレン追放令(1587、秀吉)を区別。
② 「鎖国」という言葉は江戸時代当時にはなく、19世紀にケンペル『日本誌』翻訳から作られた用語。当時は「四つの口」を通じて積極的な対外関係を維持していた。
③ 島原・天草一揆(1637-1638)=キリシタン+農民の反乱、首領は天草四郎時貞。
④ 朝鮮通信使(対馬経由)と琉球使節(慶賀使・謝恩使、薩摩経由)を区別。両方とも江戸へ来た外交使節。
練習
- 鎖国を完成させた年と、その出来事(どこからどこへ何が移されたか)を答えよ。
- 1637-1638年に九州で起こったキリシタンと農民の大反乱の名前と、その首領の名前を答えよ。
- 鎖国体制の「四つの口」とは何か、四つの場所を答えよ。