近現代 / 市民革命と産業革命 1 / 6

イギリス市民革命と立憲政治

イギリス市民革命と立憲政治

17世紀のイギリスでは、王の絶対権力に対し議会が立ち上がる二つの革命が起こりました。世界で初めて「議会が王より上」という体制が生まれます。

基本知識

17世紀イギリスでは絶対王政に対する不満が高まりました。チャールズ1世が議会を無視して課税したことから1642年ピューリタン革命(清教徒革命)が勃発、クロムウェルが議会派を率いて勝利し、1649年に国王を処刑、共和政を樹立します。しかしクロムウェルの独裁化と死後の混乱から1660年王政復古。再び専制化したジェームズ2世に対し、1688年、議会はオランダからメアリと夫ウィリアムを招き、無血で政権を交代させました。これが名誉革命です。翌1689年権利章典(権利の章典)が制定され立憲君主政議会主権が確立しました。

📘 イギリス革命の年表
1215年 マグナ=カルタ(大憲章、ジョン王、課税は議会の同意要)
1628年 権利の請願(チャールズ1世が拒否)
1642-49年 ピューリタン革命
1649年 チャールズ1世処刑、共和政(クロムウェル)
1660年 王政復古
1688年 名誉革命
1689年 権利章典→立憲君主政

深掘り (背景・影響)

市民革命の理論的支柱となったのが哲学者ロック(1632-1704)です。彼は『市民政府二論(統治二論)』で社会契約説を展開し、政府は国民の生命・自由・財産を守るために契約で作られる存在であり、政府が信託に背けば国民は抵抗権・革命権を行使できると主張。これは名誉革命を正当化し、後のアメリカ独立宣言フランス人権宣言の思想的源流となりました。議会主権(王ではなく議会が最高権力)の確立により、イギリスは「王は君臨すれども統治せず」の伝統が始まります。1721年からはウォルポールが事実上の初代首相となり、責任内閣制(議会多数派が内閣を組織し議会に責任を負う)が形成されました。

💡 ポイント
  • ピューリタン革命=1642-49クロムウェル、共和政
  • 名誉革命=1688年、無血、メアリ&ウィリアム
  • 権利章典=1689年、議会主権確立
  • ロック=『市民政府二論』、抵抗権・社会契約説
  • 王は君臨すれども統治せず
  • 1721年ウォルポール首相=責任内閣制の始まり

注意点 (混同しやすい)

ピューリタン革命(1642-49・流血・共和政)と名誉革命(1688・無血・立憲君主)を区別。② マグナ=カルタ(1215・ジョン王)、権利の請願(1628・チャールズ1世期)、権利章典(1689・名誉革命後)の3文書を時系列で整理。③ ロック(抵抗権・自由主義)とホッブズ(『リヴァイアサン』・絶対王政擁護)、ルソー(『社会契約論』・人民主権)は別の思想家。④ クロムウェルは議会派指導者だが独裁化し、死後反動で王政復古を招いた。

練習

  1. 1689年にイギリスで制定され立憲君主政を確立した文書は。
  2. 『市民政府二論』で抵抗権を唱えた啓蒙思想家は誰か。
  3. 名誉革命でオランダから招かれた夫婦は誰か。

このレッスンのQ&A

読み込み中...