アヘン戦争と中国の半植民地化
19世紀、強大な清帝国はイギリスとの戦争に敗れ、長い半植民地化の道を歩み始めます。アジアに帝国主義が押し寄せる第一波でした。
基本知識
イギリスは清からの茶・絹輸入で銀が流出していたため、植民地インドで栽培したアヘンを清に密輸して銀を回収する三角貿易(英-印-清)を行いました。清の道光帝は林則徐を欽差大臣として広州に派遣しアヘンを没収・廃棄。これを契機に1840年、英はアヘン戦争を起こし清を敗北させます。1842年南京条約で香港島割譲、上海など5港開港、賠償金支払い、公行廃止が決まりました。続いて1843年に領事裁判権・関税自主権の喪失・最恵国待遇などの不平等が追加。1856-60年アロー戦争(第二次アヘン戦争)で英仏連合軍が北京を占領、天津条約(1858)・北京条約(1860)でさらに開港地拡大・キリスト教布教自由化・九龍半島割譲などが課されました。
1840年 アヘン戦争開戦
1842年 南京条約(香港島・5港開港・賠償金)
1851-64年 太平天国の乱(洪秀全)
1856-60年 アロー戦争(第二次アヘン戦争)
1858/1860年 天津条約・北京条約
1894-95年 日清戦争→下関条約
1898年 戊戌の変法(康有為)→失敗
深掘り (背景・影響)
清は内憂外患に苦しみました。1851年、洪秀全がキリスト教の影響を受けて拝上帝会を組織し太平天国の乱を起こします。「滅満興漢」を掲げ南京を占領しましたが、1864年に曾国藩・李鴻章ら漢人官僚と常勝軍(ゴードン)に鎮圧されました。これを契機に1860年代から洋務運動(中体西用)が始まり、軍事・工業の西洋化が進められます(李鴻章ら)。しかし1894-95年日清戦争の敗北で限界が露呈、康有為・梁啓超らが1898年戊戌の変法(光緒帝の支持下、明治維新型の改革)を試みるも西太后のクーデタで失敗。中国は半植民地化の度合いを深めていきます。
- アヘン戦争=1840-42年、英vs清
- 南京条約=1842年、香港島・5港(広州・福州・厦門・寧波・上海)
- 三角貿易=英-印アヘン-清
- 林則徐=アヘン没収の欽差大臣
- 太平天国=洪秀全、1851-64
- 洋務運動=中体西用、李鴻章
- 戊戌の変法=康有為、1898、西太后が阻止
注意点 (混同しやすい)
① アヘン戦争(1840-42)とアロー戦争(1856-60・第二次アヘン戦争)は別の戦争。② 南京条約(1842・対英)と下関条約(1895・対日)・北京条約(1860)を区別。③ 洋務運動(1860-90s・中体西用・体制内改革)と戊戌の変法(1898・制度改革)、辛亥革命(1911・王朝打倒)を区別。④ 太平天国はキリスト教の影響を受けたが、洪秀全独自の解釈。
練習
- 1842年に清と英の間で結ばれた不平等条約名は。
- 太平天国を率い「滅満興漢」を掲げた指導者は誰か。
- 1898年に「変法自強」を唱えた清末の改革者は誰か。