近現代 / 帝国主義とアジア 2 / 6

インド大反乱と植民地支配

インド大反乱と植民地支配

19世紀のインドはイギリスに完全に植民地化されました。1857年の大反乱は植民地支配の転換点となります。

基本知識

イギリスは東インド会社(1600年設立)を通じてインドへの進出を進め、1757年プラッシーの戦いベンガル太守とフランス連合軍に勝利、インド支配の足がかりを得ました。19世紀前半までにマラータ同盟・シク王国を破り、ほぼ全土を支配。1857年5月10日シパーヒー(東インド会社のインド人傭兵、セポイ)の反乱を契機にインド大反乱(セポイの反乱、第一次インド独立戦争)が勃発、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世を盟主に北インド全域に拡大。1858年に英軍が鎮圧し、東インド会社は解散、1858年ムガル帝国滅亡、英政府が直接統治を開始します。1877年、英女王ヴィクトリアがインド皇帝を兼ね、インド帝国が成立しました。

📘 インド植民地化年表
1600年 イギリス東インド会社設立
1757年 プラッシーの戦い
1857-58年 インド大反乱(シパーヒーの反乱)
1858年 ムガル帝国滅亡、東インド会社解散、英政府直轄
1877年 インド帝国成立(ヴィクトリア女王=インド皇帝)
1885年 インド国民会議発足(穏健派)
1905年 ベンガル分割令→反英運動激化
1906年 カルカッタ大会4綱領(スワデーシ・スワラージ等)

深掘り (背景・影響)

反乱の直接の引き金は、シパーヒーに支給された新型ライフル銃の薬包に牛と豚の脂(ヒンドゥー教では牛が神聖、イスラム教では豚が不浄)が塗られているとの噂でした。背景にはイギリスの地税重課カースト・宗教への無理解キリスト教布教藩王国併合政策(失権の原則)などへの不満がありました。反乱後、英は分割統治(divide and rule)でヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を利用。1885年、英の主導でインド国民会議(後の独立運動の母体)が穏健派として発足しますが、1905年ベンガル分割令(宗教別に分割)が反発を呼び反英運動が激化、1906年カルカッタ大会スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治獲得)・英貨排斥民族教育の4綱領を採択。後のガンディーの非暴力運動へとつながります。

💡 ポイント
  • プラッシーの戦い=1757年、英のインド支配の起点
  • インド大反乱=1857-58年、シパーヒー(セポイ)
  • ムガル帝国滅亡=1858年
  • インド帝国=1877年、ヴィクトリア女王
  • インド国民会議=1885年発足
  • ベンガル分割令=1905年、宗教対立利用
  • カルカッタ大会4綱領=スワデーシ・スワラージ・英貨排斥・民族教育

注意点 (混同しやすい)

東インド会社はイギリス(1600)・オランダ(1602)・フランス(1604)など複数あるが、最も成功したのが英東インド会社。② シパーヒー(セポイ・英東印度会社のインド人傭兵)と常勝軍(太平天国鎮圧の英人指揮部隊)は別物。③ 分割統治(divide and rule)は英のインド支配の常套手段、後にパレスチナでも同じ手法。④ スワデーシ(国産品愛用)とスワラージ(自治)の意味を区別。

練習

  1. 1857年に始まったインド人傭兵の反乱の名称は。
  2. 1877年に成立したインド帝国の皇帝を兼ねた英女王は誰か。
  3. 1906年カルカッタ大会で採択された4綱領のうち「自治獲得」の意味の語は。

このレッスンのQ&A

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