自由民権運動と大日本帝国憲法
武力ではなく言論で政治を変えようとする運動が広がり、ついに憲法と国会が誕生します。立憲国家・日本の幕開けです。
基本知識
1874年、板垣退助らが民撰議院設立建白書を提出し、自由民権運動が始まります。1880年には国会期成同盟が結成され、政府は1881年に国会開設の勅諭(10年後の開設約束)を出しました。同年、板垣退助が自由党、翌82年に大隈重信が立憲改進党を結成。伊藤博文はドイツ(プロイセン)憲法を学び、1885年に内閣制度を創設して初代総理大臣となりました。1889年2月11日、大日本帝国憲法が天皇から国民へ与える形(欽定憲法)で発布されます。
📘 民権運動と憲法の年表
1874年 民撰議院設立建白書(板垣退助)
1877年 西南戦争(西郷隆盛、士族反乱の最後)
1881年 国会開設の勅諭、自由党結成
1882年 立憲改進党結成(大隈重信)
1885年 内閣制度創設、伊藤博文初代首相
1889年 大日本帝国憲法発布(2月11日)
1890年 第1回帝国議会、教育勅語
1874年 民撰議院設立建白書(板垣退助)
1877年 西南戦争(西郷隆盛、士族反乱の最後)
1881年 国会開設の勅諭、自由党結成
1882年 立憲改進党結成(大隈重信)
1885年 内閣制度創設、伊藤博文初代首相
1889年 大日本帝国憲法発布(2月11日)
1890年 第1回帝国議会、教育勅語
深掘り (背景・影響)
大日本帝国憲法は天皇主権を原則とし、天皇は陸海軍の統帥権を持ちました。議会は貴族院と衆議院の二院制。国民は「臣民」とされ、「法律ノ範囲内」で自由・権利が認められました。1890年の第1回衆議院議員総選挙の有権者は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子で、全人口の約1.1%にすぎませんでした。同年発布の教育勅語は忠君愛国を説き、戦前教育の中心となりました。
💡 ポイント
- 板垣退助=自由党/民撰議院設立建白書
- 大隈重信=立憲改進党/早稲田大学
- 伊藤博文=初代首相/憲法起草/プロイセン式
- 大日本帝国憲法=欽定憲法・天皇主権
- 有権者:直接国税15円以上・満25歳以上男子(全人口1.1%)
- 1877年西南戦争=最後の士族反乱(西郷隆盛)
注意点 (混同しやすい)
① 大日本帝国憲法(欽定・1889・天皇主権)と日本国憲法(民定・1946・国民主権)の対比は頻出。② 自由党(板垣・フランス流急進)と立憲改進党(大隈・イギリス流穏健)の違い。③ 西南戦争(武力反乱)と自由民権運動(言論運動)は方法が逆。④ 伊藤博文はプロイセン(ドイツ)憲法を参考にしたのであって、フランスやイギリス憲法ではない。
練習
- 1874年に民撰議院設立建白書を提出した人物は誰か。
- 大日本帝国憲法はどの国の憲法を参考につくられたか。
- 第1回衆議院議員総選挙の有権者の納税資格を答えよ。