ヴェルサイユ体制と戦間期
第一次大戦後、世界はパリ講和会議で新秩序を作りました。しかし不完全な平和はやがて新たな戦争の種となります。
基本知識
1919年1月、パリ講和会議が開催され、1919年6月28日(サラエボ事件の5年後)にヴェルサイユ条約が調印されました。米大統領ウィルソンは14か条の平和原則(秘密外交廃止・民族自決・国際連盟設立など)を提唱しましたが、英仏(クレマンソー)の対独復讐感情が強く、ドイツに過酷な条件が課されました:賠償金1,320億金マルク、すべての植民地喪失、アルザス・ロレーヌ仏返還、軍備制限(陸軍10万・空海軍ほぼ禁止)、戦争責任条項。これにドイツは「背後からの一突き」と憤激しました。1920年1月には世界初の国際機構国際連盟が発足(本部ジュネーブ)、日本も常任理事国に。ただし米国議会が条約批准を拒否し、米が不参加だったため発足から弱体でした。
1919年6月 ヴェルサイユ条約
1920年1月 国際連盟発足(ジュネーブ)
1921-22年 ワシントン会議(海軍軍縮5:5:3、日英同盟廃棄)
1925年 ロカルノ条約(独・仏・ベルギー国境承認)
1926年 ドイツ国際連盟加盟
1928年 パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン)
1930年 ロンドン海軍軍縮条約
深掘り (背景・影響)
1920年代前半のドイツはハイパーインフレに苦しみました(1923年には1兆マルク紙幣も発行)。1923年には賠償未払いを理由に仏・ベルギーがルール工業地帯を占領、これがハイパーインフレを加速。同年ヒトラーがミュンヘン一揆を起こすも失敗、獄中で『わが闘争』を執筆します。1924年ドーズ案・1929年ヤング案で賠償額が緩和され、ドイツ経済はシュトレーゼマン外相のもとで一時安定、1925年ロカルノ条約でラインラントの非武装化を確認、1926年に国際連盟加盟。1928年パリ不戦条約では「戦争違法化」が世界で初めて宣言されます。しかし1929年世界恐慌でこの安定は崩壊、ドイツではナチ党が台頭しヴェルサイユ体制は崩れていきます。
- パリ講和会議=1919年1月(主要メンバー:米ウィルソン・英ロイドジョージ・仏クレマンソー)
- ヴェルサイユ条約=1919年6月28日、対独過酷
- ウィルソン14か条=民族自決・国際連盟など
- 国際連盟=1920年、本部ジュネーブ、米不参加
- ワシントン会議=1921-22年、海軍軍縮5:5:3
- パリ不戦条約=1928年、戦争違法化
- ハイパーインフレ=1923年独、ルール占領
- ドーズ案・ヤング案=賠償緩和
注意点 (混同しやすい)
① ヴェルサイユ条約(対独・1919)・サンジェルマン条約(対墺)・セーヴル条約(対トルコ)など、敗戦国別に別条約。② 国際連盟(1920・本部ジュネーブ・米不参加・全会一致)と国際連合(1945・本部NY・米参加・多数決+拒否権)を区別。③ 14か条はウィルソンが提案、ヴェルサイユ条約には十分反映されず。④ ロカルノ条約(1925・欧州集団安全保障)とパリ不戦条約(1928・戦争違法化)はどちらも戦間期の平和努力。
練習
- 第一次大戦の対独講和条約名と調印年を答えよ。
- 「14か条の平和原則」を提唱したアメリカ大統領は誰か。
- 1920年に発足した世界初の国際平和機構は。