「もしあのとき〜だったら」という想像って、実は歴史の見方を広げてくれることがある。今日考えてみたいのは、インターネットが「有料のまま」だったら世界はどう変わっていたか、というちょっと大きな問いだ。SNSの誹謗中傷やフェイクニュースに辟易したとき、ふと「そもそも無料にしたのが間違いだったのか」という気持ちが湧いてきたことはないだろうか。私はある。
インターネットが「有料」だった時代のこと
1990年代の米国では、AOL(America Online)が時間課金制のダイヤルアップ接続サービスを展開していた。月額使い放題プランが登場したのは1996年のことで、それ以前はオンラインにいる時間がそのまま料金に跳ね返った。日本でも同様に、Nifty-ServeやPC-VANといったパソコン通信は月額基本料に加えて従量課金が発生し、電話代もかかった。長時間ネットにつなぐのは「贅沢」に近かった。
この「コストがかかる」という現実が、利用者の行動を自然に絞り込んでいた面がある。接続できるのは経済的・技術的な余裕がある層に限られ、そこには使う側の一定のリテラシーが伴っていた。匿名の悪意ある書き込みがゼロだったとは言わないけれど、今とは全然違うスケールだった。
ただ、この「昔は良かった」という話には注意も必要だ。当時ネットにアクセスできたのはごく一部の人間に過ぎない。女性も、地方在住者も、低所得層も、多くの場合そこから排除されていた。「品質の高い議論」が成立していたとすれば、それは「均質な参加者」によるものだったという側面もある。
無料化がもたらした光と影
2000年代に入り、ADSLや光回線が普及してインターネットは事実上タダで繋がれるインフラになった。Googleが無料で検索を提供し、FacebookがSNSを無料で開放し、YouTubeが無料で動画を流した。この変化がもたらした恩恵は本物だ。
アフリカの農村部の農家がスマートフォンで市場価格を調べ、適正価格で農産物を売れるようになった。発展途上国の学生が世界中の教育リソースにアクセスできるようになった。医療情報、法律情報、科学知識——それまで「知っている人だけが知っていた」ことが、検索一つで手に入るようになった。
でも同時に、別のものも広がった。フェイクニュースの拡散速度は本物のニュースの6倍という研究結果がある(MITの2018年の研究)。ヘイトスピーチはアルゴリズムに乗ってエコーチェンバーを形成し、詐欺師はほぼゼロコストで何万人もにリーチできるようになった。良いものと悪いものが同じ速度で流通する仕組みになった、とも言える。
「ユーザーが商品」という構造の話
「無料のサービスを使っているとき、あなたは何を支払っているか」という問いがある。答えはデータと注目だ。FacebookもGoogleも、その運営には莫大なコストがかかっているが、そのコストを賄っているのは広告主だ。そして広告主が買っているのはユーザーの行動データと注目時間だ。
ハーバードの経営学者ショシャナ・ズボフが「監視資本主義」と名付けたこの構造では、ユーザーの検索履歴、位置情報、感情的な反応——これらが商品として扱われる。Metaの2023年の広告売上は1169億ドル(約17兆円)。これは世界中のユーザーの「注目とデータ」から生み出された数字だ。
さらにこの仕組みが、コンテンツの性質にも影響している。アルゴリズムの目的が「滞在時間の最大化=広告効果の向上」である以上、怒りや不安を煽るコンテンツが優先表示される構造が生まれやすい。これは意図的な悪意というより、仕組み上の結果と言った方が正確かもしれない。
月1000円払う世界を想像してみる
仮にSNSが最初から月1000円の有料サービスだったとしたら、何が変わっていたか。思考実験として考えてみると面白い。
まず匿名アカウントの大量生成が難しくなる。クレジットカード紐づけが必要なら、完全匿名でのヘイト投稿は減る。ボットアカウントを100個作って情報操作するコストは10万円になる。今は実質ゼロだ。
次にアルゴリズムの設計目標が変わりうる。広告収入が不要なら、「エンゲージメントの最大化」より「サービスの使い心地の良さ」で顧客を繋ぎとめる設計になるかもしれない。怒りを煽るコンテンツより、役に立つコンテンツが優先される世界。
ただ、批判も当然ある。月1000円払えない人はそこから排除される。情報格差が生まれる。「金のある人だけが情報を得られる」という構図は、民主主義の観点で問題がある。この批判は正当だと思う。
だから「完全有料化すれば良かった」という単純な話ではない。でも「完全無料化が正解だったか」という問いには、まだ答えが出ていない気がする。
「摩擦」が持つ意味を少し考える
ここで少し視点を変えると、「摩擦」というものの意味が見えてくる。コストゼロで何かができる環境は、行動の敷居を劇的に下げる。それは良いことでもあるし、悪いことでもある。
例えば、手紙を書く時代は、誰かに怒りをぶつけるのに「手紙を書く」「封に入れる」「切手を貼る」「ポストに投函する」というステップが必要だった。その摩擦の間に、怒りが冷めることもあった。SNSはその摩擦をゼロにした。感情的になった瞬間にタップ一つで世界中に届く。これが何をもたらしたか、体感している人は多いはずだ。
「摩擦をなくすこと」と「問題をなくすこと」は同じではない——この当たり前のことが、インターネットの無料化という大きな変化の中で見過ごされてきた部分があるように思う。
「もし有料だったら」という問いは、過去を責めるためのものではない。「摩擦の設計」がどれほど社会の質に影響するかを考えるための入口だ。今からでも、その設計を問い直す余地はあるかもしれない。
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