「なんで自分で飲んだ薬のせいで救急車が来るんだ。その費用、俺らが払うのか」
ツイッターでそういう言葉を目にした。リプライには賛否両論が続いていた。「冷たい」「でも気持ちはわかる」「差別だ」「でも現実そう思う人いる」——あの混乱した感じを覚えている。
この疑問を持ってしまうことを、「間違い」と切り捨てるのは簡単だ。でも、そうすることで何かが解決するとは思えない。疑問は封じ込めても消えない。だから少し、正面から考えてみようと思う。
その疑問を持つ人の気持ちを、まず受け取る
「なぜ税金で助けるのか」という疑問を持つ人たちは、多くの場合、こんなことを考えている。
「自分たちは毎日必死に働いている。喫煙も飲みすぎも気をつけている。体を壊さないように気をつけている。それなのに、自分の意思で薬を大量に飲んで救急車を呼んだ人の治療費を、自分が支払った税金で賄っていると思うと、腑に落ちない」
その気持ちは、理解できる。「自己決定には自己責任が伴う」という考え方は、現代社会では広く共有されている価値観だ。喫煙やギャンブルによる問題は「自己責任」として語られることが多い時代に、ODだけが例外扱いになることへの違和感は、論理的には筋が通っている部分もある。
ただ、ここには一つ重要な前提が含まれている。それを検討してみたい。
「選択」の前提——ODは本当に「自由な意思決定」なのか
自己責任論が成立するのは、「その人が別の選択をできる状態にあった」という前提の上だ。
精神医学的に見ると、過量服薬(OD)が起きる状況のほとんどは、衝動制御が著しく低下した状態だ。よく見られる背景として、うつ病の急性期がある。感情の調節機能が障害されている状態で、「死にたい」という衝動と「少しでも楽になりたい」という気持ちが混在している。双極性障害の躁・うつの波も、意思決定に大きく影響する。境界性パーソナリティ障害では、強い感情の波の中で衝動的な行動が起きやすい。解離状態では、後から自分の行動を覚えていないケースさえある。
「自分で選んだ」という言葉が成立するには、「選べる脳の状態」が必要だ。でも、急性のうつ状態で脳内の化学バランスが崩れているとき、そこに「自由な意思決定」があったと言えるかどうかは、医学的にはかなり疑問がある。
たとえ話をすると、高熱でうなされて意識が朦朧とした人が、窓の外に出ようとした。「本人が選んだんだから止めなくていい」とはならないはずだ。脳の状態が正常な判断を可能にする閾値を下回っているとき、そこに「自由な選択」を見出すのは、難しい。
これは「ODした人を免責する」という話ではない。医学的な事実として、「あの状況で本人はどれだけ選べる状態にあったか」を問い直すべきだ、ということだ。
「助けないほうが安い」は本当か——社会コストの話
感情的な議論を一度脇に置いて、経済的な観点から考えてみる。
ODで救急搬送されて集中治療を受けると、確かに高額な医療費がかかる。繰り返す患者の場合、累積するコストはさらに大きくなる。「また税金が使われた」という感覚は、現実の数字と結びついている。
では、「助けない」選択をしたらどうなるか。
精神疾患を持つ人が適切な治療やサポートにつながれない場合、別の形でのコストが発生する。就労が難しくなることによる生産性の損失、生活保護や障害年金の長期受給、家族への介護負担の集中、DVやネグレクトのリスクの増大、そして子世代への影響の連鎖。厚生労働省の試算では、うつ病単独の社会的損失が年間2兆円を超えるとされている。
早い段階で介入して適切なケアにつなぐことは、長期的なコストを大幅に下げる可能性がある。これは人道的な話ではなく、投資対効果の話だ。「助けない」ほうが、トータルで高くつくことが多い。
もう一つ見落としがちなのは、「今回助けられた人が、後に誰かを支える側になる」という可能性だ。回復した当事者が支援職に就き、同じ苦しみを持つ人の力になっているケースは、珍しくない。一時点のコストだけを見て「無駄」と判断することは、時間軸を短く切りすぎている。
繰り返す患者と、医療者の疲弊
ここで正直に言うと、ODを繰り返す患者に対する救急スタッフの疲弊は、本物だ。「また来た」という無力感、「この治療に意味はあるのか」という問い、身体的な消耗。これを「間違った感情だ」と言うつもりはない。
ODを繰り返す当事者の側から見ると、「また迷惑をかけた」「次は来てはいけない」という自責感が、次のODへのトリガーになることがある。責められることへの恐怖が、助けを求める行動を遅らせる。これは悪循環だ。
この悪循環を断ち切るには、救急での対応だけでは限界がある。本来必要なのは、ODが起きる前の段階での介入——精神科的なケア、社会的なつながり、住まいや経済的な安定——だ。それが整っていないから、救急に繰り返しつながってしまう構造がある。
「救急で何度も対応している」という問題を、「助けなければいい」で解こうとするのは、問題の場所を間違えている。根本は、介入の入り口が後ろすぎることにある。
「なぜ助けるのか」という問いに、私なりに答えてみる
「なぜ税金でODの人を助けるのか」という問いに、きれいな一言で答えることはできない。でも、いくつかの視点を積み重ねることはできると思っている。
一つ目は、医学的な事実として、ODの多くは「選べる状態」で起きていないということ。自己責任論の前提が成立しないケースが多い。
二つ目は、助けないほうがトータルで高コストになりやすいという経済的な現実。感情の問題を脇に置いても、介入することが合理的だというデータがある。
三つ目は、制度と個人の感情は分けて考えるべきだということ。「またか」と思う気持ちは自然だ。でも、その感情を根拠に「助けない制度」を作るのは、別の話だ。制度は社会全体の合理性に基づいて設計される。個人感情の平均値ではない。
「なぜ助けるのか」——それは、私たちが「助けなかった場合の社会」で生きたくないからだと、私は思っている。感情論ではなく、自分たちの社会をどこに置きたいかという、戦略的な選択として。
この問いに「正しい答え」があるかはわからない。でも、封じ込めるより、考え続けるほうがいいと思っている。
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